本能寺の変から中国大返し、次回は清須会議と大河ドラマ「軍師官兵衛」がクライマックスに達している。それでも、関ヶ原の戦いの折にも官兵衛は九州で暴れまくるというのだから、まだまだ見所は多い。
智将官兵衛の魅力が余すことなく描かれているようだが、今日レポートする史跡は連歌好きな文化人官兵衛ゆかりである。
太宰府市宰府四丁目の太宰府天満宮境内に「如水の井戸」がある。
九州を席捲する勢いだった官兵衛ゆかりの井戸が太宰府天満宮にあっても不思議ではない。詳しいことは説明板に教えてもらおう。
福岡藩主黒田長政の父孝高(よしたか、如水は法号)は、天満宮を深く崇敬して、此処に草庵を建て、二年間隠棲(いんせい)の際使用した井戸です。
官兵衛は2年間ここで暮らしたという。いったい、いつ、何のために。
関ヶ原の戦いの功により、息子長政は筑前名島52万石を与えられた。名島城は手狭なため福崎の地に新城を築くこととした。これが福岡城である。慶長六年(1601)4月から築城が始まったことに伴い、太宰府天満宮の境内に隠宅を構え、慶長八年(1603)に福岡城三ノ丸御鷹屋敷に移るまで、そこに住んでいた。
もっとも、二年の間には上京して清水寺に参詣することもあったようだから、決して隠れ住んでいたわけではない。官兵衛が太宰府天満宮に奉納した慶長七年(1602)正月十六日付けの「如水公夢想連歌」の冒頭には次のような句が記されている。
松梅や末長かれと緑立つ 山よりつづく里は福岡
これが地名「福岡」の初見史料である。福岡は先祖の故地である備前福岡にちなむというのが一般的な理解だが、研究者によると黒田氏が備前福岡に在住したという確たる証拠はないという。したがって、筑前福岡と備前福岡との関係は不明である。
それに対して、「福岡」が太宰府で歌われ寿がれたのは確かなことだ。福崎を福岡とした理由はよく分からないが、今に伝わる史料の中で「福岡」が初めて登場するのは太宰府の地であった。
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