出雲を流れる斐伊川の氾濫がヤマタノオロチ(八岐大蛇)のイメージを形成したという。木曾地方で「蛇抜け」といえば山津波のことである。ヘビは災害と関連付けられることが多いのだろうか。今日は「蛇」にちなむ川のお話である。ただ、河川の蛇行ではない。下の写真のように真っすぐ流れている。
奈良市雑司町の東大寺の境内を「白蛇川」が東から西へ流れる。
恐ろしそうな名前が付いている割には細い流れだが、何か謂れがあるはずだ。そこで、筒井寛秀『誰も知らない東大寺』(小学館)で調べてみよう。筒井寛秀師は第212世東大寺別当を務められた方である。
聖宝が大峰山へ登山したとき、洞川(どろがわ)に一匹の白蛇が住んでいました。聖宝は山に参詣する人々の安全のために、この白蛇を封じ込めました。その後聖宝が東南院の書斎で書見をしておられると、一匹の白蛇があらわれ、灯火を毒液で滴し、鋭い眼光を現して聖宝に飛びかかろうとしました。そこで聖宝は、暗闇のなかで恐ろしく光る白蛇の眼をにらみつけ、洞川より登山を封ぜし怨み、いま自分を呪うならば、いよいよきびしく封じ、この上帰山できざるようになすべし。ゆえに一刻も早く洞川に帰るべし、とさとされたのです。
白蛇は聖宝の勢に恐れをなし姿を消してしまいましたが、数日後また毎夜聖宝の部屋へその白い姿を現しました。そこで聖宝は、白蛇の心を憐れに思い、直ちに洞川に弁財天の祠をつくり、なおまた餅飯殿(もちいどの、奈良市餅飯殿町)にも弁財天を祭祀され、「汝を厳にいましめこらすべきはずなるも、大峰山の霊地に住まいせしものなれば、この川に放生(ほうじょう)しあたえん」と、東南院の北の川に放たれました。
聖宝(しょうぼう)は平安前期の高僧で醍醐寺の開山として有名で、江戸時代に東山天皇から理源大師の諡号を賜った。東大寺には東南院を創建した。写真の左前方がその跡地である。
聖宝は大峰山を道場とする修験道に深い関わりがある。大峰山の麓、奈良県吉野郡天川村洞川の龍泉寺について、天川村役場ウェブサイトの観光情報には次のような記述がある。
龍泉寺の1キロ上流の蟷螂の岩屋に雌雄の大蛇が住みつき、修験者たちに危害を加えました。そのため、一時大峯修行を志す人が絶えて、龍泉寺も荒廃してしまいました。修験道中興の祖、聖宝・理源大師が、真言の秘法によって岩屋の大蛇を退治し、龍泉寺を再興したと伝えられています。
さらに、奈良県吉野郡黒滝村鳥住の鳳閣寺について、『大和の伝説』(大和史蹟研究会)は次のように記している。
吉野山の西南八キロメートル、海抜九〇〇メートルあまりの百螺岳の半腹に、大峰山の中興理源大師開基の鳳閣寺という真言宗の古刹がある。大法螺貝と蛇骨が、随一の重宝となっている。役の行者が大峰山上が嶽開山の後、約二百年たったころ、山中の阿古滝に大蛇が住み、しばしば危害を与え、大峰の霊場も荒廃に帰した。そこで、理源大師は勅命を受け、奈良居住の先達で武勇に富む箱屋勘兵衛を供につれて、百螺山下にきたり、法螺が淵で垢離をとり、百螺岳に登って、大螺を吹き鳴らして祈禱を行なわれると、その音は百螺を一時に鳴らしたごとくであったから、山を百螺岳という。
さてその響きに揺り動かされて、大蛇は洞を出て、この山に向かってきたが、そこを大師は法力をもって呪縛し、箱屋勘兵衛は大鉞をふるって、たやすく両断した。これで大峰登山の道も再開された。寺宝の法螺と蛇骨は、この時のものである。法螺は長さ四〇センチメートル、胴囲六〇センチメートルあまり、蛇骨は背椎骨第三節まで付着、長さ三〇センチメートルの頭蓋骨である。
奈良に餅飯殿(もちいどの)町というのがある。箱屋勘兵衛の居住地だが、勘兵衛が、奈良から鳳閣寺へ、理源大師の御機嫌伺いに参上のつど、大師好物の餅・飯などを持参したので、大師は勘兵衛を「餅飯殿」とたわむれに呼ばれた。それからこの町名が出たという。
龍泉寺に鳳閣寺、そして東大寺。東大寺が伝えるのは龍泉寺とのつながりのようだが、餅飯殿(もちいどの)とのつながりは鳳閣寺にあるように読める。鳳閣寺は宝物の由来を伝え、龍泉寺は寺の由緒を語り、東大寺は聖宝の慈悲を強調している。伝説をたどると意外なつながりが発見できる。
むかし、奈良に行ったときに商店街でうちわをもらった。そのうちわには「奈良もちいどのセンター街」とあったが、「もちいどの」が何のことか分からずに気にかかっていた。も一度かな、持ち井戸かなと意味不明なことを考えていたが、今日初めて「餅飯殿」と知った。大蛇を退治した修験道の恩人であったとは。
写真の白蛇川の話をしていないが、その名の通り、聖宝が白蛇を放った川である。この川は吉城川、佐保川を経て大和川に流れる。瀬戸内海に出た白蛇は紀ノ川から黒滝村へ戻ったのだろうか、それとも熊野川まで回って天川村へ戻ったのだろうか。