子どもが鷲にさらわれるなんぞ、このうえもない悲劇であるが、説話ではよくあることのようだ。よく知られたところでは良弁(ろうべん)というお坊さまが鷲にさらわれた子どもであった。良弁は東大寺の初代別当という日本史上でも著名な高僧である。
奈良市雑司町の東大寺二月堂の前に「良弁杉」がある。
二月堂では今ちょうど、修二会(お水取り)のお松明が毎晩行われている。火の粉が舞い散って美しいが、よく火事にならぬものだとも感心する。が、それは今日の話題ではない。写真の一本杉にまつわる伝説である。『大和の伝説』(大和史蹟研究会、昭和34年)から読んでみよう。
良弁僧正は、近江(滋賀県)志賀の里の人である。その母に久しく子がなく、観音に祈ってもうけた子である。二歳の時、母が桑摘みに行くので、携えて出ると、不意に鷲が来て幼児をさらった。鷲は、奈良の二月堂下の大杉までその子を運んで、翼を休めていた。そこで南都の名僧義淵僧正が来合わせて、子供を助けて養育した。良弁は、その後一世の名僧となり、聖武天皇の尊信を得、東大寺の建立に尽力したが、かの杉を父母と思い、毎日参拝を怠らなかった。それが今いう良弁杉で、二月堂の下にそびえている。
きて良弁の母は、その後三十年間、東西にさまよって子のゆくえを求めていたが、偶然、淀川の舟の中で、当時南都に栄えている良弁僧正が、幼時鷲に取られて奈良に来た子供の後身だそうな、とのうわさを耳にし、もしやと思ってこの地に尋ね寄り、実子とわかり、ついにこの樹の下で母子の対面をとげたという。
良弁僧正の出生地は滋賀県大津市南船路と大津市歴史博物館のサイトで紹介されている。しかし異説がある。神奈川県鎌倉市長谷2丁目に「染谷太郎太夫時忠邸阯」の石碑があり、時忠については「南都東大寺良弁僧正ノ父ニシテ」と記されている。また神奈川県立公文書館紀要第6号掲載の研究論文によると、秦野市北矢名付近に本貫地を有する漆部直伊波が時忠のことだという。さらに、福井県小浜市下根来には「良辨和尚生誕之地」と刻まれた石碑がある。
いずれにしても、子どもの良弁さまがこの杉の木まで運ばれてきたのは確かなことだ。いや説話だから確かではあるまいが、そう信じられてきたのは確かだ。しかし、今から1300年も前のことにしては杉の木が若いようだ。根元の石碑に次のように記されている。
かつてこの地には、樹齢約六百年、高さ七丈に及ぶ杉の大木があり、東大寺の開山良弁僧正が御幼少の頃、大鷲がさらってこの木に飛来したとの伝説によって良弁杉と呼ばれて人々に親しまれてきた。
しかるに、昭和三十六年九月十六日、台風のため惜しくも倒潰したので、今日その遺趾に、その枝を挿木して育成した名木の二世を植樹して、之を永く後世に伝えたいと思う。
そういえば『大和の伝説』に掲載されている写真の杉は大きく立派だ。この大杉を倒したのは第二室戸台風で室戸岬での最大瞬間風速は84.5m/秒であった。これは観測史上第2位の記録である。
先代の良弁杉が樹齢600年であっても、幼児をさらった大鷲が翼を休めることはできない。そこで、さらに調べると『大和名所記-和州旧跡幽考』に次のように記されている。
良弁杉は良弁僧正童子の時ゐ給える跡なり。もとは櫟(いちい)の木にてありしが鳥羽院天永九年九月におのづからたふれ(御順礼記)其跡に杉生たちけるより俗に良弁杉とよぶ。
鳥羽天皇の元号、天永は4年までだから「天永九年」はおかしいのだが、杉以前には櫟の木があったという。「櫟」はイチイとクヌギの意味がある。どのような木だったかは知る由もないが、現代の良弁杉は小振りながら美しい樹形である。自然災害を乗り越えてきた復興のシンボルとしても貴重である。
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