ドイツ・ボンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は先ほど、日本が推薦する「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産に登録することを決定した。我が国の歴史を動かした施設群が世界に認められたことに心より祝意を表したい。
今回は一部の施設について、戦時中に朝鮮半島出身者が徴用されたとして、韓国が反対を表明するなど、厳しい局面があった。韓国との交渉にあたった関係者の方々にも謝意を伝えたい。
島根県邑智郡邑南町久喜(くき)に「久喜銀山跡」がある。入口に置かれたトロッコがかつての雰囲気を再現しており、脇の水路を絶えず流れる水が耳に心地よい。
島根で銀山といえば、我が国が世界に誇る石見(いわみ)銀山である。今日お話しする久喜銀山は、同じ石見地方の銀山だが世界遺産ではなく、町の文化財にさえ指定されていない。場所は石見銀山(大田市)からかなり南へ離れており、広島県との県境に近い。
久喜銀山の発見は、鎌倉時代初期の建久年間とされるが、本格的な開発は戦国時代、毛利元就によると考えられている。以後、江戸時代の初めにかけて盛んに生産が行われ、この地域には数千人が居住していたという。
その後、いったん衰退してしまうが、明治21年に津和野の鉱山王、堀藤十郎が近代技術によって再開発する。上の写真は「水抜間歩(まぶ)」といって、明治33年(1900)に排水のために掘られた坑道だが、この時大鉱脈が発見された。
明治35年頃には二千人が住み、同38年には大森銀山(石見銀山)をしのぐ量の銀を産出したという。しかし、水害や不況の影響により、明治41年に閉山となった。昭和26~30年に再開発が行われたこともある。
明治日本の産業革命遺産は、我が国が西洋技術を導入して重工業を発展させた歴史を示す貴重な施設群である。官営八幡製鉄所や韮山反射炉は教科書にも登場する。軍艦島は観光地としても注目されている。八幡製鉄所が操業を始めたの明治34年以降、我が国の鋼材生産量は急激に伸びていく。
久喜銀山のピークも同じ時代だ。中国山地の山中においても産業革命は進行していた。ここは精錬所跡など遺構が比較的よく残っており、その名称や意義を記した説明板が整備されている。当時の建造物はほとんど撤去されているものの、「煙道」は下の写真のように一部が残存している。
韮山反射炉は煉瓦積みの煙突が美しいが、こちらの「煙道」は、煙が通る煉瓦造りのトンネルである。写真奥から手前に向かって煙が昇ってきた。何か所もある精錬施設の煙を集めて、山頂から排出する施設だった。
もう一つ見ごたえがあるのは「カラミ原」だ。これについては、邑南町・同教育委員会の説明板を読むことにしよう。
カラミ原とは精錬時に排出される鉱滓(カラミ)捨て場のことです。カラミ原は厚さ数メートル、広さ約3000㎡におよび、大量のカラミが廃棄されています。溶けたカラミをバケツ状の容器に入れ一輪車で運んでいました。今でもバケツ状に固まったカラミを観察することができます。
カラミは一般的にはスラグと呼ばれ、必要な金属を分離させた残りかすである。カラミを一つ手に取ると、思った以上に重さを感じた。何が含まれているのかは知らない。
この残りかすが一面に堆積するまでに、どれだけ多くの人が携わったのだろう。坑道を掘る人、鉱石を掘る人、運ぶ人、溶かす人、発生した不純物を捨てる人。そして、あの急斜面に煙道を築いた人。危険と隣り合わせで働いていたに違いない。
産業革命はイノベーションであり、新技術によって大量生産が可能となった。だからこそ技術立国日本は、産業革命遺産に高い価値があると考えたのである。
それでも私は、新技術に見合うだけの作業を強いられた労働者に改めて思いを致す。これを強制労働と言ってしまえば、今回の韓国の主張のように的外れな論になってしまうが、人の働きなくして産業革命は成り立たなかったことは確かだ。
ともあれ、「明治日本の産業革命遺産」は世界文化遺産となった。登録された8県23施設にとどまらず、日本各地に残る近代の産業遺産に目が向けられる契機となるに違いない。カラミ原で手にしたカラミの重さを思い出しながら、そう考えた。