藤原鎌足の娘が、唐の高宗(こうそう)に嫁いでいた、という新情報が入ってきた。高宗の嫁さんとして最も有名なのは、中国唯一の女帝、則天武后(そくてんぶこう)である。武后に隠れて日本人妻を囲っていたというのか。
さぬき市志度の補陀落山志度寺に「海女(あま)の墓」がある。
結論から言うと、高宗に日本人妻はいない。これは伝説であり、能の演目「海人(あま)」で演じられる物語である。どのようなストーリーなのか、まずは説明板を読んでみよう。
天武の昔、淡海公(たんかいこう)藤原不比等(ふじわらのふひと)は、唐の高宗妃から送られた面向不背(めんこうふはい)の玉が、志度沖で竜神に奪われたため、身分をかくして都から志度の浦を訪れ、純情可憐の海女と恋仲になり、一子房前(ふささき)が生れた。淡海公から事情を明かされた海女は、瀬戸の海にもぐり竜神とたたかい玉を取り返したが、竜神のため傷つき真珠島で命を果てた。
後年大臣となった房前は僧行基を連れて志度を訪れ、千基の石塔を建てて母の冥福を祈ったという、殉愛悲恋のヒロイン海女の墓である。かたわらに五輪の塔と経塚がある。
毎年旧暦六月十六日には、大法会が行われ、十六度市が立ち、千三百余年の昔をしのぶ、供養がいまなお続けられている。
さぬき市文化財保護協会
藤原不比等が唐の高宗の妃から「面向不背の玉」を贈られたのだという。実はこの妃こそ、鎌足の娘、不比等の妹、白光(びゃっこう)だったのである。天武年間、妃は父の供養にと、三つの宝物を贈った。すなわち華原磬(かげんけい)、泗濱石(しひんせき)、そして面向不背の珠(たま)である。
興福寺が所蔵する「銅造華原磬」(国宝)と「石造泗濱浮磬(ふけい)」が、これに当たるという。どちらも唐代の工芸技術の高さを示す優品である。
もう一つの面向不背の珠も、やはり藤原氏の氏寺である興福寺に納められたが、現在は竹生島の宝厳寺にあるとされる。この珠は、どこから見ても仏像の正面が見えるという。
さて、三つの宝物を運ぶ船は瀬戸内海の志度沖を通りかかっていた。この時、珠が海底にひそむ竜に奪われてしまったのである。不比等はこれを取り返そうと現地に赴き、土地の娘と関係を結び、その協力を得て所期の目的を果たした。
しかし、竜との激しい戦いにより海女は命を落としてしまう。残された子、房前が成長して大臣となり、母の供養にと建立した石塔が「海女の墓」である。
なんともスケールの大きな物語で、ドラゴンが登場する欧米のファンタジーを見ているようだ。ちなみに、史実における房前の母は蘇我娼子(しょうし)といい、馬子のひ孫にあたる女性である。
藤原氏の子孫は公家の本流として栄えるが、中には武家となったものもいる。讃岐の大名となった生駒氏は本姓を藤原氏とし、鎌足九代の孫、時平の後裔だという。つまりは北家房前の子孫である。
同じく志度寺に「生駒(いこま)雅楽頭(うたのかみ)親正(ちかまさ)の墓」がある。生駒氏は大和国生駒庄を本貫としたが、後に尾張に移ったという。親正については説明板に教えてもらおう。
美濃国土田(どた)郡に生まれる。織田信長に仕え、のち豊臣秀吉に従って身を起し、賤ヶ嶽、小牧山の合戦で戦功をたてた。天正十五年八月、十七万石を与えられて讃岐の国主となる。高松城、丸亀城を築き、地元郷士を重用して善政を行う。朝鮮出兵のあと秀吉は伏見へ呼び、「中老職」を与え、国政に参画させる。
関ヶ原の合戦には豊臣方に味方したため、一時高野山に身を隠したが、息子一正の東軍での軍功に免じて罪を許された。
隣りの海女の墓は「生駒家の先祖」に当るとして志度寺を崇敬。八ヶ条の定め書を下して同寺の保護に力を注いだ。親正は慶長八年二月十三日、七十八才で生涯を閉じた。高松弘憲寺にも墓がある。
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生駒親正の父、親重は土田(どた)氏の出身で生駒氏の養子になった。織田信長の母、土田御前も土田氏だから、親正は信長と近しい関係にあったのだろう。
生駒氏は関ヶ原におけるお家の危機を乗り越え、親正没後も高松藩主として近世大名となるが、寛永十七年(1640)にお家騒動により出羽国矢島に転封となる。
生駒氏を代表する武将、親正が、アイデンティティを海女の墓に求めたところが興味深い。人は誰もが、自分は何者なのかを問う。この時代にあっては、由緒正しい血統に大きな価値があった。親正は海女の墓を保護することで、自らの出自をアピールしたのだろう。
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