人間到るところ青山あり。骨を埋むる豈ただ墳墓の地のみならんや。人も歩けばお墓に当たる。これだけ多くの人が生きてきたのだから、それだけお墓も多い。一人で複数のお墓がある人もいる。和泉式部の墓は各地にあるようだから、吉備真備の墓が二つ三つあってよいだろう。墓が多いのは慕われている証拠である。
岡山県小田郡矢掛町東三成の国史跡「下道氏墓」に「右大臣真吉備公之墓」と刻まれた標柱があり、その隣に石のカプセルのようなものが置かれている。
吉備朝臣真備は、もと下道(しもつみち)朝臣真吉備と名乗っていた。ここは真備の祖母の銅製骨蔵器が出土したことで知られる。骨蔵器は「銅壺」として国重文に指定されている。真吉備公の墓とされる石櫃には、銅壺がすっぽり収まりそうな穴が開いている。
矢掛町で吉備真備を顕彰する吉備保光会が出版した『吉備公遺蹟誌』には、次のような記述がある。
明治四十五年七月東京、矢掛弓雄、朝倉菊衛両氏『右大臣真吉備公之墓』と記せる墓標を建つ。
石函は堅緻なる凝灰岩製にて円形をなし径二尺五寸五分高一尺六寸あり、中央に口径一尺三寸深五寸七分底径七寸五分の穴を穿ち口辺に石蓋を施すべき凸縁を設けたりその側に高一尺四寸幅八寸五分の同質の破片を置く蓋の一部らし、その形狀大さを通観するに全く後述の骨蔵器を納むるに適し該器がこの内より発見せられしかとも思はる、奈良朝時代にかゝる石函を使用して骨壺を葬りしは和銅三年の伊福吉部徳足の墓天平二十一年の行基の墓に其例あり、前引國勝寺書付の一に石一ツあり云々と見えこの推測の実らしさを増さしむるも而も此の石函は近時こゝに持ち来りしものに係り同村字カラウスに奉祀せる荒神社の境内にありて吉備公の碓(からうす)と称せるもの石蓋と思はるゝは同所を距る西数町十方寺と称する古刹の石垣の間より近時出せるものなりとの事なれば此の骨蔵器とは関係なきものと見るべく云々、
石櫃は骨蔵器を収納していたように見えて、他所から運んできたものだそうだ。記録によれば、銅壺は石灰が詰まった土瓶の中から見つかったという。元禄十二年(1699)のことだ。
真備公の墓とする標柱を建てたのは、東京の矢掛弓雄と朝倉菊衛の両氏であった。矢掛氏は隅田川神社の神主で、史跡の保存に熱心だった人だ。墨田区登録有形文化財(歴史資料)に「矢掛弓雄関係石碑群」がある。朝倉氏は地元出身のジャーナリスト、帝国通信社を経営していた。
両氏が石櫃を真備公の墓所とした理由は何だろう。「吉備公の碓(からうす)」と呼ばれていたから真備公の墓と判断したのか。下道氏の墓所だから真備公の墓があっても不思議ではないが、根拠が薄いと言わざるを得ない。
倉敷市真備町箭田の吉備公廟(吉備様)があり、奥に「吉備公墳」がある。
きれいに整備されているが、それなりの古さを感じる。もちろん奈良時代に宝篋印塔はなかった。ここが吉備公墳と認定された事情は、地元の地理学者、古川古松軒が著した『吉備の志多道』に詳しい。読んでみよう。
吉備大臣の御廟 八田村
昔時より吉備公御墳墓たりといひ、時代遙に阻るに囚りて其証も無かりし故、大僊院殿(奉號、伊東信濃守長貞)廉潔質直の御気象あって、世人半疑半信にて是を崇むるは、其実にあらずと仰あり。元禄年中此墳を発き見給ふに、御棺ありて内には御骨あり、御脛骨甚だ長し。伝へ聞く吉備公卿長高かりしと、是によりて御真廟なりとて、縁記除地を寄付し給ひ、真蔵寺といゝし寺を吉備寺と改称して、末代に吉備公の霊を祀らしめ給ふ。墳墓を発き給ひしは大器量にして、普く世人の疑を解き給ひぬ。是れ聖知とも云ふべきか。
按に小田郡東三成村にて、吉備國勝公母君の墳を発きしに、御骨蔵の器に銘あり。又和州宇和郡大沢村にて吉備公の葬り給ふ楊貴氏の古墳墓を誤り発きしに、甎(カハラ)に銘あり。然るに吉備公の御墳墓に銘のなき事不審。或人の云ふ、墓誌ありしと言伝ふと、然れども古寺の記にも記さず。其他を索るにまた詳ならず。諺に云ふ鰯の頭も信心といへば、吉備公の徳を崇むるに、其地の真偽を論せんや。大僊公名称し給ひし吉備公の御廟に、疑を記せるは甚だおそれ有りといへども、其実を云ふのみ。
昔から吉備真備の墓だと言われているが、時代が遥かに隔たっており、その証拠もない。このため備中岡田藩4代藩主伊東長貞公は行いが正しく正直な性格でいらっしゃるので、世の人が半信半疑で崇拝するのを放置するわけにはゆかない、とおっしゃった。元禄の頃にこの古墳を発掘すると棺桶があり中から骨が見つかった。脛の骨でとても長かった。聞くところによれば、吉備真備公は高身長だったという。これを決め手として真備公ご自身の墓と判断し、由緒書や免税地を寄付し、真蔵寺という寺を吉備寺と改称して、末永く真備公の霊を祀らせることとした。古墳を発掘したのは素晴らしい判断で、世の人々の疑いを解消された。まさに名君というべきだろう。
少し立ち止まって考えてみよう。小田郡東三成村で下道圀勝(真備公の父)公母君の古墳を発掘すると、出土した骨蔵器には銘があった。和泉国宇智郡大沢村(五條市大沢町)で楊貴氏の古墳を発掘すると、出土した塼(せん)に銘があった。なのに真備公のお墓からは、銘のある出土品がない。これはおかしいのではないか。ある人は、墓誌はあったが記録に残さなかった、という。いろいろ調べたが詳細は不明だ。鰯の頭も信心からということわざがあるように、吉備真備公の徳を敬慕するのに、墓所の真偽を論ずる必要があるのか。伊東長貞公が認定した吉備公廟に疑いを挟むのは甚だ恐れ多いが、事実を記したまでである。
偉大な先人の墓を特定しようとした伊東長貞公の器量を称えながら、銘文が刻まれたものが出土していないことに疑問を呈している。鰯の頭でも信ずる者は救われるのだ。墓所の真偽を論ぜずとも真備公の崇敬はできるだろう。と至極まっとうな主張をしている。
伊東公が吉備真備の墳墓と判断した決め手は、長い脛の骨であった。真備公は高身長だったというが本当だろうか。根拠を明らかにして真偽を判断しようとする伊東公の姿勢には敬服するが、やはり決め手としては心許ない。
なお、奈良教育大学のキャンパス内に「吉備塚古墳」があり、吉備真備の墓だと言われている。この古墳の築造は6世紀のようだから、これも真備公とは関係なさそうだ。ならば本当の墓はどこにあるのか。骨蔵器なり塼なり銘文は見つかるのか。いや、やはり古松軒先生のおっしゃるとおり、真偽を論ずる必要はないのかもしれない。
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