紫式部に言わせれば「和泉はけしからぬかたこそあれ」(『紫式部日記』)だそうだ。和泉式部の人物評である。ただし歌の才能には一目置いている。「口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまるよみそへはべり」と、即興の歌にもキラリと光るものがあったと感心している。
尾道市向東町の西金寺(さいこんじ)に「和泉式部墓」がある。もっとも和泉式部は何人いたのかというくらい墓が各地にあるので、これは供養塔と考えたほうが自然だろう。
山門から境内に入って左手の山の中腹、一般の方のお墓が林立する中にある。西金寺は和泉式部の草創だという。この地が和泉式部の伝説にふさわしいのは、このような地名があるからだ。
この歌浦の近くに「遍留遠谷(へるおだに)」がある。下の写真の池の辺りの道路だという。開発のため昔の姿は留めていないようだ。
この遍留遠谷については、ずいぶん前に「和泉式部の『へぼ歌』」という記事で触れた。この地については偉大なる柳田国男先生が著作で取り上げているのだ。今回は写真が掲載できたので、もう一度原典を読んでみたい。角川文庫『女性と民間伝承』の「備後の和泉式部」の一節である。
同じ村のうちにまた歌浦という地もありました。その近くにあった遍留遠谷(へるおだに)という旧跡は、和歌浦の片男波(かたおなみ)と同様の珍名で、昔この女歌人が、
へるをだに遅しとぞ思ふから衣たつをきしとは誰かいふらん
という歌をよんだ処と伝えております。ところでこの一首は三百年も後の人、薬師寺元可入道の作だそうで、かわいそうに後から生まれたばかりに、和泉の歌を盗んだかのごとく疑われておりましたが、御覧のとおり主を争わねばならぬほどの名吟でもありませぬ。ヘルもタツもキルも三つながらから衣の掛けことばで、察するところこういう心持を、言い現わしそこなったものでありましょう。すなわち人待つ身には路すがらさえ遅いと思うのに、出発したことを来たというのは不都合だというつもりでしたろうが、あんまり口合いに熱心で、少しも感じがうつらず、文法もちがっています。
そんなに悪く言うくらいなら、紹介せずにおくほうがよいようなものですが、私がおもしろいと思う点は別にあるので、いつでも旅の上臈(じょうろう)の詠んで遺したという歌にかぎって、何か相手を困らせるような、意外でしかも小賢(こざか)しい文句になっているのは、偶然のことではないのであります。
歌には元来(がんらい)難題は付きもので、現に史上の本ものの和泉式部なども、敏捷(びんしょう)なる多くの返歌とともに、返答に困るような多くの贈り歌をもって、才女の誉(ほま)れをあげたのですが、何のためにそのような角力(すもう)のごとき文学が昔盛んに行なわれたかというと、かえってその理由をヘルオダニのごときへぼ歌に、求めねばならなかったのであります。
その理由とは、へぼ歌とも名歌とも区別のつかない民衆に、歌による奇跡を説いて信仰へ誘った人々がいたということだ。歌の意味が理解できるから信ずるのではない。経文のようにありがたく聞こえればよいのだ。おそらくは、各地を遍歴した比丘尼たちによるものだろう。
解説してもらって「へるをだに」の歌を読み返せば、なるほど小賢しさが感じられるようになった。もう少しで和泉式部に、いや比丘尼に言いくるめられるところだった。待てよ、こう思うのも柳田国男先生に言いくるめられた結果なのかもしれない。やはりへぼ歌の判定は難しい。
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