このブログの最初の記事は、村の祖師堂にある日露戦勝記念の石鉢を取り上げた。村を挙げての祝祭ムードについてレポートした。
幕末以来、我が国の人々は外国と接することを通して国家を意識するようになった。帝国主義の風潮に乗じて、対外武力行使をたびたび行い、ほとんどが成功を収めた。それを我が事のように人々は喜びを表現した。その一つのピークが日露戦勝であった。
それをさかのぼること10年前。日清戦争でも記念碑が建てられている。日露戦争に比べると目にする機会は限られているが、草の根帝国主義の時代は確実に始まっていた。
「明治廿七八年 征清紀念碑」と刻まれている。今日紹介したいのは、これと同じ場所にある珍しい形の岩と砲弾である。
尾道市向東町古江浜の冠天神に「冠岩(かんむりいわ)」がある。
天神の岩だから道真に関係があるだろうと思い、調べてみるとやはりそうだった。『尾道の民話・伝説』(尾道民話伝説研究会)を読んでみよう。
菅原道真公が九州の太宰府に流される途中のことです。
歌の置帆(おきほ)というところに船を着け、ある一軒の家に立ち寄りました。里の人たちが、小麦餅をさし上げると、道真公はことのほか喜ばれました。
また道真公は、近くの山にまつられている神社に詣で、冠をとり、そばの岩の上に置いてしばらく瀬戸の海を眺められました。
その後、この山を天神山、神社を冠天神、冠を置かれた岩は、姿が冠に似ているということもあって冠岩と呼ばれるようになりました。
なるほど、納得の伝説である。瀬戸内沿岸にはいったい幾つの菅公伝説があるのだろうか。その菅公配流から一千年の時を経て、明治の日本はすっかり姿を変えていた。菅公が遣唐使を停止し中国からの自立を図ったのに対して、明治国家は中国を影響下に置こうとしていた。
それが冠岩の手前に置かれた砲弾である。碑文を拡大してみよう。
「明治三十三年」「義和団匪」、そして、大日本帝国陸軍の「第五師団」の文字が見える。第五師団は広島に本営を置いていた。義和団事件における出兵、つまり北清事変では日本軍の中核をなしていた。
向島から出征した方が、ゆかりの砲弾を冠天神に奉納したのだろう。義和団事件に関係する史跡とは珍しい。日清と日露の二つの戦争のはざまでエピソード的に語られるが、日本が北京への駐兵権を得るなど、後の日中戦争の遠因ともなる重要な事件であった。
「征清紀念碑」から5年後の砲弾、その砲弾からさらに45年で敗戦、敗戦からは70年になろうとしている。戦後70年の平成27年には「安倍談話」が出るらしい。しかし、未だに首脳間の信頼関係が築けておらず、日中関係(日韓関係も)は厳しい局面に陥っている。
再来年の「安倍談話」で戦略的互恵関係が築けるのか、火に油を注ぐのか、先行きはまったく不透明だ。確かなことは来年の4月に消費税が8%になることだけである。これだけは安倍首相が決断したので間違いない。
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