ゼレンスキー、トランプ両大統領の会談が公開の場で決裂したことを受け、英仏はウクライナと共にある姿勢を鮮明にし、ロシアはほくそ笑み、中国はだんまりを決め込んでいる。
正義がウクライナにあるのは確かだが、人命が失われ続ける現実を前にすれば、トランプ氏が主張する和平を選択するのも一理あるだろう。領土か人命かという究極の選択を迫られている。
先の大戦における我が国の立場は、どう考えても今のロシアだろう。自衛権の行使だと主張しながら、客観的には侵略であった。ただ、大きく異なるのは、今のロシアが優勢なのに対し、かつての我が国はすでに敗色濃厚だったことだ。正義もなければ軍事力も失われつつあり、頼みの綱は精神力だけだった。
東京都墨田区横網2丁目の横網町公園に「東京都慰霊堂」がある。東京都選定歴史的建造物である。
御霊を慰めるお堂。聞けば十六万三千柱の御霊が祀られているという。建物は和風な意匠でありながら、重厚な鉄筋コンクリート造に見える。この広い公園に慰霊堂があり、数多くの人々が供養されているのは、どういうことだろう。お堂前に立つ説明板を読んでみよう。
東京都慰霊堂由来
この堂は、大正12(1923)年の関東大震災の後に、東京市内で災害の最も悲惨であったここ被服廠跡に、遭難死者のご遺骨を納める霊堂として建てられ「震災記念堂」と名付けられました。
そして、遭難者の霊を祀り、その加護によって今後このような災害の起こらないことを祈願するため、毎年9月1日の震災記念日に慰霊大法要を執り行い、併せて「焦土のなかから東京を復興させた官民の熱心な協力」の思い出をあらたにしようとしたものです。
ところが、その悲願も空しく、21年を経た昭和19(1944)年の冬から、首都東京は戦争により空からの爆撃を受けて、関東大震災の数倍もの惨禍を被りました。
そこで、この戦災遭難者の霊と御遺骨を併せてこの堂に奉安し、昭和26(1951)年9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、最も被害が大きかった東京大空襲の日の3月10日にも毎年東京都慰霊協会主催による慰霊大法要が行なわれるようになりました。
*利用時間 9:00~16:30(年末年始休み)
*施設概要 竣工日 昭和5(1930) 年4月30日
構造 鉄骨鉄筋コンクリート造
延床面積 1,470㎡ 最高高さ40.9m
設計者 伊東忠太
納骨数 震災58,000体、戦災105,000体
東京都
この広場は、あの関東大震災(大正十二年九月一日)最大の悲劇の場となった「本所被服廠跡」であった。当時空き地となっていたこの場所は、避難場所として適しているかに思われた。ところが、周囲の住宅から伸びた火の手が避難者の運び込んだ家財道具に次々と引火し、その炎が合流して火災旋風が発生した。「人が空に舞い上がった」という証言もある。約3万8000人がここで亡くなった。
震災から22年後、今度は戦災の惨禍に見舞われる。昭和二十年三月十日の東京大空襲である。本所区の焼失面積は96%に及んだという。ここ横網町公園は奇跡的に被害が軽微で、震災記念堂も無事であった。大空襲全体の死者は10万人を超え、この公園を含めてたくさんの空き地に仮埋葬された。その遺骨をまとめて奉安したのが、現在の東京都慰霊堂である。建物正面に掲げられている由来記を読んでみよう。
震災記念堂
東京都慰霊堂 由来記
顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起った震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民は業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で当時横綱町公園として工事中であった。与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った。戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった。江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った。当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが同二十三年より遂次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
横綱公園敷地は約六,〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
昭和二十六年九月
東京都
「備えよつねに」確かにその通りだ。次は南海トラフが動くというから、いざという時のシミュレーションをしておかねばなるまい。自然災害ならまだしも、人災である戦争もそうだろうか。人の意思なのだからコントロールできそうだが、それができないのが人の弱さだ。
昭和十二年の日中衝突だって収めようと思えば可能な紛争だった。戦争に拡大とか長期化はつきものであり、常にその危険性に備えておかねばならない。「国民政府を対手とせず」など交渉窓口を閉ざすのは、愚策以外の何ものでもなかろう。人生と外交は妥協が肝要だが、妥協をよしとしない我が国が歩んだ道は、大空襲へと続いていた。多くの人命を失う重大事態を防ぐ備えは、まったくなかったと言っていい。
感謝を強要されながらもウクライナのゼレンスキー大統領は、口論となったトランプ大統領を「対手とせず」とは言わない。それどころか再会談の希望を表明している。何度も約束を破るプーチン大統領には「対手とせず」と言いたいだろうが、相手にせざるを得ないだろう。領土で妥協を迫られるに違いない。
外交上の妥協と正義の貫徹は別物だ。妥協によって人命が守られるなら、それもリーダーとしての決断だ。しかし、どのような結果になっても、正義はウクライナにありと主張すべきだろう。領土問題を平和的に解決するのは我が国の国是だからだ。震災記念堂そして東京都慰霊堂を前に、歴史に学び「備えよつねに」という教訓を改めて心に刻みたい。
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