濃尾地震といえば、教科書か何かで見た根尾谷断層の衝撃的な写真を思い出す。あんなに地面というものはずれるものなのか。その衝撃たるや如何ばかりであったのか。想像すらしにくいのだが、大変な被害となったことだけは容易に理解できる。
岐阜市槻谷に「岐阜公園三重塔」がある。岐阜城の麓にあって、ロープウェイを除けば織田信長も愛でた風景であったかのように思えるが、そうではない。
国登録有形文化財だから古いといえばそうなのだが、信長ゆかりではなく、近代災害史に特筆される濃尾大地震に関係がある。岐阜市教育委員会の設置する説明板を読んでみよう。
大正天皇の即位を祝う御大典記念事業として記念塔の建設が企画され、岐阜市が、市民の寄付も募ったうえで、大正六年(1917年)十一月二十一日にこの三重塔を建立しました。
材木には、明治二十四年(1891年)十月二十八日に発生した濃尾大震災により倒壊した長良橋の古材が利用されています。
石造りの二重基壇の上に建つ木造三重塔で、各重(各層)とも三間四方のつくりです。中央の心柱は、鎖で吊り下げて礎石から浮かした懸垂式とよばれるもので、江戸後期から明治にかけて、全国でもわずかな例しか見られない特徴的な方式です。
装飾を用いない古風で調和の取れた意匠は、明治神宮などを設計し日本建築史学の創始者と評される伊東忠太の手によるものです。また、塔を建てるのにふさわしい場所としてこの地を選んだのは、岐阜市内の小学校を卒業している日本画家、川合玉堂と言われています。
心柱が浮いているという懸垂式にも興味が湧くが、法隆寺の建築にヘレニズムの様式美を見出した伊東忠太先生のお名前が聞けたことがうれしい。洋風建築もお得意なのだが、ここでは純和風で勝負している。御大典記念ということだろうか。
この三重塔には長良橋の古材が使われているという。長良橋は長良川にかかる長大な橋で現在は5代目となる。濃尾地震による被害を受けたのは2代目の木造橋であった。
壊れた長良橋の廃材が三重塔のメモリアルとして甦ったというのは、いい話だ。それより、深く悲しむべきは多くの死者が出ていることである。その数7237人。内陸部最大というマグニチュード8.0の直下型地震であった。
そして、岐阜県内の犠牲者4889人を慰霊するために建立されたのが、下の建物である。
岐阜市若宮町2丁目に「震災紀念堂」がある。これも国登録有形文化財である。
ここでも岐阜市教育委員会の説明板にお世話になることとしよう。
震災紀念堂は、明治二十四(1891)年十月二十八日の濃尾震災による県下の犠牲者を弔うため、地元の国会議員天野若圓(あまのじゃくえん)によって建立されました。
震災の大きな被害に心を痛めた若圓が、県令小崎利準など地元政財界を始め、全国からの応援を得て創建したもので、明治二十六(1893)年十月二十七日、京都の本願寺から本尊の寄贈を受け、犠牲者の霊牌と震災死亡人台帳を安置し、開堂に至りました。
震災被災者を追悼する建物としては我が国最初のものです。外観・内装は、天野若圓が浄土真宗の僧侶出身であったことから、浄土真宗様式を基調としていますが、宗派を超えた慰霊堂として造られています。
震災紀念堂は、若圓没後も地元の人々の協力を得て、天野家によって維持管理され、毎年、震災のあった十月二十八日はもとより、毎月二十八日には現在も法要が執り行われています。
なお、関東大震災の後、東京の震災記念堂(現在の東京都慰霊堂)を建設するにあたり、岐阜公園三重塔も設計し、日本建築史学の創始者と評される伊東忠太が見学に訪れたといわれています。
東日本大震災においても、官民さまざまに慰霊施設がつくられている。陸前高田市が今年1月に建てた慰霊碑の建屋には、津波で流失した高田松原の松が使われている。2月には安倍首相が献花した。また、真言宗総本山の金剛峯寺は奥の院に「東日本大震災物故者慰霊碑」を建立し、3月11日に三回忌の法要を営んだ。
濃尾大震災においては、前年の第1回衆議院議員総選挙で岐阜1区から当選した天野若圓の尽力によって、2年後に震災紀念堂が建てられ三回忌の法要が行われた。平成22年には120年忌として法要の他に歴史と建築の観点からのお話があったようだ。
災害の多いこの日本列島においては、災害の慰霊碑や追悼施設が大小さまざまにつくられている。頭を垂れて防災の誓いを新たにしたいものである。
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