「うきうきクラブ」という、一見のうてんきな名前の団体が、岡山商工会議所内に存在する。しかし、よく考えていただきたい。岡山で「うき」と戦国マニアに問えば、即座に「宇喜多」と答えるであろう。そう、「うきうき」とは、高揚した気分ではなく、お猿の鳴声でもなく、宇喜多直家、秀家の父子である。
東京都八丈町大賀郷に「宇喜多秀家の墓」がある。
苔むしてはいるが、戒名は「尊光院殿秀月久福大居士」と刻まれている。八丈ビジターセンターが発行したリーフレット「八丈島歴史散歩‐1 宇喜多秀家の墓」は、次のようにまとめている。
彼は関ヶ原の戦いで石田方(西軍)の総大将を勤め、戦いに敗れて慶長11年(1606年)八丈島流罪。息子や家来など13名で来島。八丈島流人第一号。明暦元年(1655年)在島50年で八丈島に没する。卒塔婆型の墓石はそのときのもので、五輪塔型の墓石は天保12年(1841年)の建立。
金沢の前田家(秀家の婦人豪姫の実家)から明治元年(1868年)まで、隔年に白米70俵と、金子35両が送り届けられたという美談が遺されている。
付き添ってきた医師の村田道珍斎の墓と屋敷跡も近くに現存する。
ちなみに宇喜多姓は嫡男だけが名乗り、次男以下は浮田姓を名乗ったという。また、身分の高い将に献名した場合も浮田姓を名乗らせ、一般の人には喜多姓を与えたと言われている。
さすがは豊臣家に仕えた五大老、流人とはいえ格式が違う。世が世なら近世大名、近代華族という道を歩んだかもしれない。しかし、しなやかに生き抜く力は主家以上の実力があった。
岡山の「うきうきクラブ」は「宇喜多秀家☆フェス」というイベントを2年前から実施している。墓は遠く異郷の地にあるが、公への思慕は岡山の人々に広がっている。