比叡山に一度だけ登ったことがある。こんな山上にお寺を開こうとは、常人なら思い付かないだろう。延暦寺は麓の日吉大社を守護神としており、かつては寺院と神社の境界はあいまいだった。
玉野市田井四丁目と五丁目、八浜町八浜の境あたりに三等三角点「三皇」がある。標高236mで向こうに霞んで見えるのが八浜の町。この絶景は木を伐採してくれた地元の方のおかげである。
今登っているのは十禅寺山。頂上部は南北に細長く、ここはその北端である。
この広い地点を「金剛峰」という。二三六・五米と表示されている。桜の時季だったが、名所とするには本数が少ないからか、パッとしない天気のせいか、誰一人いない。
広い遊歩道を南へ進むと「不老峰」二三五・〇米がある。気持ちの好い散策コースだ。さらに南へ歩こう。
十禅寺山の最高地点「西光峰」二三八・一米に到達した。このあたりもけっこう平坦で広い。
西光峰から遊歩道は西へ曲がりながら向嵶へと下っていく。途中の平坦な場所が「中将峰」二一一・九米である。峰と呼びながら、峰というほど峰ではない。嵶まで下りて説明板を読むと、その理由が分かる。
十禅寺山の由来
十禅寺山の地名は、天台宗の守護神十禅師権現に由来するものと考えられている。
平安時代にはここ一帯の山上に寺院が開かれ、一時はその数が十坊あったと伝えられている。金剛峰、不老峰、西光峰、中将峰などの峰々の名は、これらの山上伽藍の呼び名に、由来している。
この山には寺坊が林立していたのだ。すなわち、金剛坊、不老坊、西光坊、中将坊などである。その僧坊跡の平坦地が峰と呼ばれているようだ。ここは山岳仏教の聖地である。
最澄や空海が仏教史の画期となるのは、山岳仏教を創始したことだ。宗教的な純粋さを保つために山に籠もり、一心に信じることで自身からも宇宙からもパワーを引き出そうとした。後の鎌倉仏教の開祖のほとんどが比叡山で学んでいるのだ。南無妙法蓮華経は日蓮宗だが、法華経は天台宗の根本経典でもある。
十禅寺山中に日吉神社があるが、比叡山と関係の深い近江坂本には日吉大社が鎮座する。境内には樹下宮という摂社があり、かつては十禅師と呼ばれていたそうだ。説明板に言う「天台宗の守護神十禅師権現」である。
玉野市八浜町八浜と八浜町波知の境に「大乗権山」があり、標高は217mである。
最澄は比叡山に大乗戒壇を設立しようとしたというから、この山も天台宗に関係あるのだろうか。『玉野市史』には、次のような記述がある。
大平山から八浜寄りの大乗権現山にかけてかつては大乗権現という神仏混交の仏寺かあるいは神社があったようで、瀬戸内海を眼下に見下す十禅寺、瀬戸内、児島湾の両方の見渡せる大平山、児島湾を見下す大乗権現山と、東西南北の高峯を連ねたこの一連の山や谷が平安時代の山上伽藍としてこの地に栄えていたことは、その遺跡や地名によって知ることができる。
建物があってもよさそうな平坦面があるが、転がる石は礎石にしては小さいように思う。権現というから神仏混淆の信仰があったのだろう。信仰心とは、神であれ仏であれ、絶対的存在への帰依である。
十禅寺山も大乗権山もパワースポットであることに疑いない。児島には由加山という山上伽藍が今でも栄えている。山、高きが故に尊からず、山上伽藍あるを以て尊しとなす。