わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて さそふ水あらば いなむとぞ思ふ 【小野小町】
「このたび私は三河国の役人になりました。どうです? 私の任地を見に行きませんか」
そう文屋康秀が誘ったのに対する返事が先の歌である。
「三河なんですね。川には浮草、憂き身の上ですから流れには身を任せましょう」
つまりは「最近つまんないし、行ってもいいよ」ということだが、才媛ともなると軽い返事がしっとりとした甘さを含んで聞こえてくる。
和歌山市湯屋谷に「小町の墓」がある。
熊野古道の道沿いだから貴人ゆかりの史跡がそこここにあってよいだろう。日本の伝説39『紀州の伝説』(角川書店)には次のように記されている。
小町の墓と伝えられるものは、「小町堂」と刻まれた標石の背後にあって、まるで人目を避けるかのように、つくねんと立っていた。台石や基壇もなく、卵塔の塔身(約六二センチ)だけ。「宝暦十一巳/迎空了雲沙弥/正月十日」と、三行書きの銘のほか何も刻されていない。
『紀伊国名所図会』によると、年老いた小町は、熊野参詣のため、ここまでたどり着いたが、行き悩んで死に果てたという。それを里人が哀れんで建立したのが小野寺らしい。
確かに近くに「小野寺」橋があった。白鳥山小野寺は小野小町終焉の地ということだが、明治23年に廃寺となったらしい。また先ほど引用した『紀州の伝説』には、小町は自分が袖にして悶死した深草少将の菩提を弔うため、小寺を建て少将の供養塔を築き寺の傍に庵を結んで、そこで死んでいったとも伝えている。さらに次のような言い伝えも紹介している。
村人たちは、都の美女の無残な末期に同情を寄せ、小町が建てた小寺の少将の供養塔に並べて、小町の墓を建て、この寺を小野寺と呼ぶようになりました。また、いつのころからか、この地方では、小野寺の小町墓に寄って祈願すれば、必ず子が授かるという言い伝えが生まれました。
小町伝説は各地に残るが、その伝播に大きな役割を果たしたのが熊野比丘尼だといわれる。美しい小町でさえ老醜をさらすようになったのじゃ。誰もが生老病死の憂患(うげん)から逃れることはできぬ。死してもなお地獄か極楽かのお裁きを受けねばならぬ。地獄に行きたくなくば熊野権現を拝みなされ。信仰を求めた小町は参詣はかなわなかったが、その魂はこの地で供養を受け極楽へと向かった、というわけか。
墓だという石塔に刻まれている宝暦11年は1761年に当たる。小町の時代とは数百年の開きがあるが、熊野比丘尼の活動した時代とは重なる。卵形の墓は、熊野比丘尼が建てた小町の供養塔なのか、いや、小町の物語を語った比丘尼自身の墓だったのかもしれない。
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