今日10月9日は「ジャコビニ彗星の日」から50年の記念日である。当時のようすを松任谷由実さんの曲で知ることができる。この日は大流星雨が出現するらしいと盛り上がり、人々はこぞって空を見上げた。軌道計算の結果、日本やシベリア上空の出現率が高いというのだ。しかし、待っても待っても星は流れなかったという。「シベリアからも見えなかったんだって」楽しみにしていた非日常を味わうことができず、人々はいつもの生活に戻っていく。遠い天空で起こる一瞬の出来事に恋の切なさを重ねた名曲である。
1972年は日本列島改造論に浮かれる高度成長の時代であった。雲があっては見えないと富士山にまで登る人もいたという。山の上が天体観測にふさわしいのは、今も昔も変わらない。安倍晴明も山の上から星を見上げたという話をしよう。
浅口市鴨方町小坂東に「史蹟 安倍晴明ゆかりの地 天体観測屋敷跡」と刻まれた標柱がある。
人里離れた場所ではないが、狭い車道をけっこう登らねばならない。車を停めて山道をしばらく歩くと神社がある。境内の説明板を読んでみよう。
安倍晴明ゆかりの地
陰陽師・安倍晴明のゆかりの地として鴨方町と矢掛町にまたがる阿部山に残されている。伝説によると、この地で安倍晴明が天体観測をしていたと伝えられており、そのためこの山は阿部山と呼ばれるようになったといわれている。
陰陽師安倍晴明
安倍晴明は平安時代中期に活躍した歴史上実在の人物だが、出生や生い立ちなど多くの謎につつまれている。
晴明は当時の陰陽道の第一人者であった賀茂忠行に弟子入りし、陰陽道の知識や占術・呪術を伝承された。しだいに陰陽師としての頭角をあらわしはじめた晴明はその後、朝廷に使える身となり、天皇をはじめとする多くの貴族の陰陽師に関する祭事や占いに従事した。後世、晴明はわが国第一の陰陽師として全国に伝説を残し、現在でも崇拝者は絶えない。
阿部神社(通称晴明神社)
昭和十七年に阿部山入植者の手によって創建された神社である。この地が古くから「安倍晴明天体観測の地」として伝わっており、鎮守を建立するにはこの地がふさわしいということから現在の位置に建てられたという。
晴明大権現のほこら
まつられた時代は不詳。江戸時代には信仰の対象だったと伝えられる。この周辺が安倍晴明屋敷跡といわれ、ほこらの周りには人工的に配置された石が並び、今でもおまいりする人は絶えない。
平成十五年三月
鴨方町教育委員会 矢掛町教育委員会
ここは「安倍晴明天体観測の地」と古くから言い伝えられていたという。近くには「安倍清明屋敷跡」の表示があり、その向こうに阿部神社の社殿が見える。
阿部神社は比較的新しい神社である。入植者の心の拠り所として安倍晴明伝説が活用されたのだろう。
道を引き返して少し北へ歩くと小田郡矢掛町江良(えら)に入る。道の右側に「安倍晴明之碑」と力強く刻んだ顕彰碑がある。説明板を読んでみよう。
安倍晴明ゆかりの地
安倍晴明は平安時代中期に活躍した歴史上実在の人物である。後世、晴明はわが国第一の陰陽師として全国に様々な伝説を残している。岡山県内においてはとくに井笠地域に多くの伝説が残されており、ここ阿部山でもその昔、安倍晴明が天体観測をしていたと伝えられている。そのためこの山は阿部山と呼ばれるようになったともいわれている。
安倍晴明の碑
この顕彰記念碑は昭和三十年代に矢掛町江良の地元有志を中心とした人々により建立された。建立当時は現在のような機材も少なく、巨石を持ち上げる苦労は大変であったろうと想像される。石材は阿部山の石(花崗岩)を用いており、石工がこの地で直接文字を彫り込んだという。わが国第一の陰陽師、安倍晴明を顕彰するとともに、「安倍晴明天体観測の地」として伝わるこの地を後世に語りついでいきたいという熱意が伝わってくる。
平成十五年三月
鴨方町教育委員会 矢掛町教育委員会
地元の方々の熱い思いが伝わってくる。清明伝説は陰陽師によって地方へ伝播したというが、ここもそうなのだろうか。昭和35年、近くの竹林寺山に天文台(東京大学附属東京天文台岡山天体物理観測所、現在は国立天文台ハワイ観測所岡山分室)が建設された。さすがは清明、千年以上前に天体観測にふさわしい場所を選定していたのである。
藤原定家『明月記』にかに星雲のもとになる超新星を記録しているが、この情報を提供したのが安倍泰俊で、清明から8代目の子孫である。清明自身はここ阿部山の天体観測屋敷で、何を見て何を占ったのか。まさかジャコビニ流星群大出現を予測した東京天文台のように、世間から叩かれたのではないでしょうね。
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