CD-Rにはずいぶんお世話になった。音楽用でけっこうたくさんのお気に入りアルバムを作ったものだ。データ用としてはいったん記録すれば消去できない点が心強い。この光記録メディアが昨年「未来技術遺産」に登録されたという。開発は1988年である。情報技術史に残る遺産なのだ。
後世に残す価値があるものを「遺産」というなら、その価値は時代によって変化するのかもしれない。本日は後醍醐天皇ゆかりの史跡を紹介したい。かつて大ブームの中で注目された聖蹟が消え去ろうとしている。
美作市田原の杉坂トンネル入口付近に「阿布美岩」と刻まれた石碑がある。
旧出雲街道の史跡である。ここに行くには、県道からトンネル入口に向かって下り、自動車道の下をくぐるとよい。碑をよく見ると、「阿布美岩」の他にも次のように刻まれている。
(正面)御落涙の雫乃跡や苔の花 橙邨
(左側面)昭和拾年
(右側面)元満州国法制局長三宅福馬氏 寄…
建武中興六百年が昭和九年(1934)だから、その関連で建てられたのだろう。三宅福馬氏は高知県出身の逓信官僚。昭和九年まで満州国法制局長を務めていた。詩文をよくする人で「橙邨」は俳号である。
おそらく橙邨氏もこの地を訪れたのであろう。そして、歳月を経た岩の模様に後醍醐帝の悲嘆を重ね、句に表現したのであった。その岩は「鐙(あぶみ)岩」と呼ばれている。『英田郡誌』には、次のように記されている。
鐙岩
杉坂越の西麓に二石あり相対立して其間道路なり元弘帝の御通過の時龍馬の御鐙支(さへ)りしより名あり。
隠岐へと向かう後醍醐帝が通過する際に、鐙(足を掛ける馬具)が当たったのだという。『新編作東町の歴史』や『作州のみち 峠・木地師の道』に掲載されている昭和期の写真を見ると、二つの大石が並んで、その間がVの字のように開いている。その鐙岩の現状がこれだ。
左端が「阿布美岩」の石碑である。その下にあるのが鐙岩なのだろうが、激しい水流で土台が流され、原形を留めていない。人智の及ばぬ自然が猛威を振るったからか、それとも人の価値観が変化して放置されたためか。
かつては王政復古の偉業として顕彰された建武中興であったが、戦後は時代の趨勢を無視した反動政治と見なされるようになった。だからといって「鐙岩」がすぐに放置されたわけではない。最大の危機は中国自動車道(昭和50年供用開始)の工事であった。石田寛監修『おかやまの峠』福武書店には、次のような記述がある。
トンネル直前で自動車道の直下を通るガードを二つくぐると、その先わずか二〇メートルほどのところに、幅一・八メートルほどの旧道と、後醍醐天皇の伝説をもつ鐙岩・鞍懸岩が見える。行く手は工事のときの土捨場となって、道は埋没している。旧道と伝説の岩を残すべく、田原の人々は道路公団とたびたび交渉して、やっとのことでここだけ残したのだそうだ。古来からの杉坂越えの道はここしか原形を留めていない。
「地理院地図」を見ると、わずかに道が掲載されている。確かに道はあったのだ。ところが今やこのありさま。後醍醐帝の身の上よりも、失われゆく旧跡に落涙する思いだ。帝の帰還は叶ったが、鐙岩が復原されることは二度とないだろう。
来た道を戻って県道に出よう。しばらく進むと山側に「口漱ぎの泉」がある。県道の拡幅によって、このような姿になったのだろう。
石碑には「建武中興六百年記念」「昭和九年二月建之」とある。この先の杉坂峠には、昭和二年建立の「杉坂史蹟」の大きな記念碑もあった。現代の大河ドラマでゆかりの地にブームが押し寄せるのと同じで、建武中興ブームでこの地を訪れる人も多かったのではないか。泉に向いた側面に、次のような歌が刻まれている。
いたましき 行幸(みゆき)の昔畏くも すすぎとらしし これの真清水(ましみず) 久明
確かにCD-Rの開発は情報社会の進展に大きく貢献した。保存して顕彰するに値する。いっぽう廃帝となった後醍醐が通過した道は失われるがままとなっている。廃帝が口を漱いだのか、鐙が石に当ったのか、本当のところは分からない。けれども「それがここなんじゃ」と、さも見たかのように人々が語り伝えた伝説だけは記録に留めておきたい。
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