お城の象徴である天守でホンモノなのは全国に12あるが、普段使いの御殿で現存するのは4棟のみだという。本丸御殿は高知城、川越城、二の丸御殿が二条城、掛川城である。このうち川越城については「中学生がバレーをした本丸御殿」でレポートした。本日の御殿は…。
洲本八幡神社の境内に県指定文化財の「金天閣」がある。
建物そのものは大きくないが、玄関はたいそう立派だ。お殿さまの御殿にふさわしく思えるが、どうなのだろう。説明板を読んでみよう。
寛永18年(1641)阿波藩主蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)が三熊山(みくまやま)北鹿の洲本城内に建てたと伝えられている。江戸初期の書院造の貴重な一例である。
明治以後の数度の移築の中で、改変の跡も見られるが、内部はほぼ当初のままである。床、脇床、書院構、納戸構(帳台)を備え、黒漆塗の折上げ格天井に金箔が貼られていることから金天閣と呼ばれている。
納戸構や違棚に打たれた蜂須賀家紋(左卍紋)入の飾金具並びに間仕切欄間の意匠彫刻は江戸時代初期の特徴をよく示しており、県下に遺存する数少ない殿舎建築として貴重である。
平成4年11月 兵庫県教育委員会
蜂須賀至鎮は元和六年(1620)に亡くなっており、当時の藩主は忠英(ただてる)が正しい。御殿にふさわしい意匠がふんだんに取り入れられ、現存御殿に数えられてもよいように思う。
阿波藩蜂須賀家の本拠は徳島城。洲本城は筆頭家老の稲田家が居城としていた。金天閣が現存御殿から外されているのは、大名ではなく家老の御殿だからなのかもしれない。
以前の記事「嗚呼、庚午事変150年!」で説明したように、明治維新の際に稲田家は蜂須賀家に対抗して、立藩独立の動きに出たが失敗に終わった。しかし、すべての建造物が失われた徳島城に対し、洲本城は金天閣を今に伝えている。稲田家の誇りをこの建物に見るような気がする。
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