名古屋城では現在本丸御殿の復元が行われている。全体の完成は平成30年という大計画である。さすがに尾張名古屋は城で持つである。城郭は天守閣のイメージが強いが、天守閣がなくとも藩政は機能する。藩政が実質的に行われていたのは御殿である。
川越市郭町二丁目に「川越城本丸御殿」がある。天守閣が現存する城郭は全国で12あるが、本丸御殿が現存するのは川越城と高知城くらいだ。
川越城本丸御殿は今年3月までの予定で修理が行われている。貴重な遺構がさらに文化財としての価値を高めるものと期待したい。この本丸御殿については、川越市立博物館のウェブサイト「川越城本丸御殿保存修理工事」に詳しい。このうち トップ > 川越城の歴史 から「本丸御殿の歴史」の一部を抜書きしよう。
江戸時代後期に成立した「新編武蔵風土記稿」においては、本丸に「今は家作なし」と記されています。家光没後、将軍家の川越来訪はほとんどなくなり、本丸御殿の御成御殿としての役目もなくなったためか、いつしか殿舎は解体され、「家作なし」つまり空き地になったと考えられます。
ところが、江戸時代末の弘化3年(1846)、城主の居所である二の丸御殿が火災によって焼失してしまいました。住居を失った城主は、新たな御殿の建造を空き地であった本丸に求めました。こうして嘉永元年(1848)、時の城主松平斉典(なりつね)によって本丸に新たな御殿が建てられたのです。当時は川越藩の歴史の中でも最大の石高(17万石)を領していた時期であり、本丸御殿は16棟、1025坪の規模を誇っていました。
明治維新を迎えると、川越城は次第に解体されていきましたが、大広間及び玄関部分だけは入間郡役所、煙草工場、中学校校舎などに使用されました。現存する建物は往時と比べ、敷地面積にして8分の1、建坪で6分の1の規模でしかありませんが、3間の大唐破風をはじめとする建物の各部分に武家の威容を感じ取ることができます。日本国内でも本丸御殿が現存している例はきわめてまれで、昭和42年(1967)に埼玉県の指定文化財になりました。
火災で住む所がなくなった殿様が建てた豪邸は、往時に比べるとずいぶん小さくなっているようだが、これだけ残っているだけでも現代人は圧倒される。さらに興味深いのが維新後の本丸御殿の活用だ。郡役所になったことはうなずけるものの、煙草工場に中学校校舎である。
しかも中学校時代は屋内運動場として使用されたという。天井にバレーボール跡が残っていたのはそのためだ。私も見て驚いたが、殿様が知ったら腰を抜かすだろう。それだけに本丸御殿の歴史を刻む貴重な天井板なのかもしれない。今回の修理でどうなるのか気になるところだ。
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