私は失敗したことがない。うまくいかない方法を見つけただけだ。エジソンはそう言ったという。さすが、ポジティブだ。私もうまくいかない方法をよく見つけるが、同じ方法ばかり見つかる。どうやら学んでいないらしい。
南朝の中心として知られる児島高徳も、うまくいかない方法、いやはっきり言って失敗している。1回目の失敗は船坂峠での天皇奪還である。これは「幻の天皇奪還計画」でレポートした。今回は2回目の失敗を紹介しよう。
岡山県美作市田原と兵庫県佐用郡佐用町皆田の境にある杉坂峠に「杉坂史蹟」と刻まれた石碑がある。
近くに史跡整備に賛同した人々の名前が示されており、犬養毅、平沼騏一郎、宇垣一成などのお歴々を見つけることができる。どおりで重厚な造りになっているわけだ。どのような意義がある場所なのだろう。碑の裏の銘板には、次のように記されている。
元弘二年 後醍醐天皇北條氏のため隠岐に遷され給ふや児島高徳 鳳輦を途にかへし奉らんとす。太平記に云ふ
さらば美作杉坂(すぎさか)こそ究竟(くつきやう)の深山(みやま)なれ此にて待たてまつらんとて三石(みついし)山より直違(すぢかひ)に道しなき山の雲を凌(しのぎ)て杉坂へつきたりければ主上はや院庄(いんのしょう)へ入せ給ひぬ
とこの地即ち杉坂と称え播作二州の境にあり。元弘回天の鴻業義人の忠烈まさに此の地に図りて永に世に伝ふべし
昭和二年四月
元弘二年(1332)、倒幕に失敗した後醍醐天皇は、隠岐への配流処分となった。天皇奪還を山陽道の船坂峠で計画していた児島高徳は、天皇一行が出雲街道に入ったと聞き、大急ぎで杉坂峠に移動したのである。
ところがどうだ。「主上はや院庄へ入せ給ひぬ」天皇はすでに峠を通過していた。児島高徳、2回目の失敗であった。はっきり言って何もしていない。それでも「回天の鴻業」「義人の忠烈」と最大級に称えられる。これが戦前の時代相であった。
引用されているのは『太平記』巻四「備後三郎高徳が事附呉越軍の事」の一節である。ここ杉坂峠は『太平記』の舞台ではあるが、南朝を特別扱いしなくなった戦後の歴史観では、史跡として扱うには弱い。そこで現在は関所の跡として史跡指定されている。
昭和41年に「杉坂の関の跡」として作東町指定の史跡となり、昭和58年に「杉坂峠関所跡」として上月町指定の史跡となった。現在は合併により美作市、佐用町それぞれの史跡である。佐用町の説明板には、次のように説明されている。
大宝令によって整備された美作道は、山陽道の太市から美作国府に向かって西北に伸び、杉坂峠を越えて美作に入った。
播備作(ばんびさく)の広大な地域を制した赤松一統の中で、赤松則村が元弘三年(一三三三)に関を設けたところである。
慶長年間に万能峠が開通したので、杉坂峠の通行人は少なくなったが、判明している郡内唯一の関所跡である。
赤松則村が関を設けたところだという。実はこれも『太平記』を根拠とする。巻六「赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜ふ事」には、天皇方として挙兵した赤松則村が、東西交通を遮断したことが記されている。
やがて杉坂(すぎさか)、山里(やまのさと)二箇所に関をすゑ、山陽、山陰の両道をさしふさぐ。これより西国の道止まって、国々の勢上洛する事をえざりけり。
山里(やまのさと)は現在の兵庫県赤穂郡上郡町山野里である。さすがは円心、押さえるべきところをしっかりと押さえ、倒幕に大きな役割を果たしている。高徳が失敗した杉坂峠で、円心は大成功を収めた。やはり顕彰すべきは、高徳ではなく円心だということか。
それでも児島高徳は人気がある。単に忠臣だったというだけでなく、失敗してもめげずに頑張るからだ。高徳は三度目でついに天皇に追いつく。奪還はできなかったものの、ちょっといいところを見せてくれる。この話は、後日レポートすることとしよう。
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