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義を見てせざるは勇なきなり。私は子ども会のカルタ大会の練習で、この言葉をおぼえた。その出典が『論語』だと知ったのは大人になってからだし、この言葉が『太平記』にも採録されているのは、今回調べて初めて分かった。そして、この教えを人生に生かそうとして、できていない。
備前市三石に「船坂山義挙之趾」と刻まれた大きな碑がある。昭和十五年の紀元二千六百年を祈念して建てられた。
揮毫は正二位男爵平沼騏一郎である。建碑の前年に内閣総理大臣を務めていたが、予想外の独ソ不可侵条約に対応しきれず「欧州情勢は複雑怪奇」と言い残して退陣した。そんな不名誉なことはこの碑と関係なく、国粋主義的な平沼の思想と船坂山での義挙という出来事との親和性に着目したい。
この「義挙」とは、どのような出来事か。時は元弘二年(1332)、倒幕に失敗した後醍醐天皇は隠岐へと配流となった。備前出身の忠臣、児島高徳(こじまたかのり)にとっては、天皇を救うことこそ正義であった。『太平記』巻四「備後三郎高徳事付呉越軍事」を読んでみよう。
「見義不為無勇」いざや臨幸の路次に参りあひ、君を奪ひ取り奉って、大軍を興し、たとひ屍(かばね)を戦場に曝(さら)すとも、名を子孫に伝へん、と申しければ、心ある一族ども皆この義に同ず。さらば路次の難所に相待ちて、その隙(ひま)をうかゞふべしとて、備前と播磨との境なる、船坂山の嶺(いたゞき)に隠れ臥し、今や/\とぞ待ちたりける。臨幸余りに遅かりければ、人を走らかして、これを見するに、警固の武士、山陽道を経ず、播磨の今宿より山陰道にかゝり、遷幸をなし奉りける間、高徳が支度(したく)相違してけり。
「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉がある。いざ、配流される天皇一行のたどるルートに向かい、陛下を奪還して大いに戦おうではないか。たとえ死体を戦場にさらすことになろうとも、名誉を子孫に伝えるのだ。児島高徳がそう言うと、心ある一族はみな義挙に参加することとなった。さっそく、ルートの難所に待ち伏せして、機会をうかがおう。高徳らは播磨と備前の境である船坂峠に隠れ、天皇一行が来るのを今か今かと待っていた。ところが、あまりにも遅いので部下に見に行かせると、なんと天皇と護衛の武士は山陽道ではなく姫路から山陰へ向かう出雲街道に入ったことが分かった。高徳の予測は間違っていたのである。
高徳とて、考えなく船坂峠で待ちぼうけを食らったのではない。天皇の隠岐配流には先例があった。承久の乱に敗れた後鳥羽上皇である。このとき上皇一行は、播磨から備前に入り美作へと抜けて行ったのである。高徳は今回も同じルートだと予測した。ところが幕府側は、裏をかいて播磨から直接美作へ入るルートを選択していた。結果、ここ船坂峠の「義挙」は不発に終わり、天皇一行には何の影響もなかったのである。
しかし、その後の歴史、後醍醐天皇の隠岐脱出、幕府崩壊、京都還幸、新政権樹立という流れの源流は、ここ船坂峠にあるとみなすことができる。天皇にお味方することを正義とするならば、確かに「義挙」であったろう。
地方武士の義挙によって成立した建武の新政は、武士の生活を保障しようとしなかったために短期間で崩壊する。大多数の支持を得られなかったことを正義とすることはできない。ゆえに船坂山での出来事を「義挙」と呼ぶには、いささかのためらいがある。それでも、人生の教訓とするならば、高徳の行動に学ぶべきだろう。「失敗は成功のもと」なのである。
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