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美作をめぐる山名氏VS赤松氏

国道482号は、京都府→兵庫県→鳥取県→岡山県→鳥取県→岡山県→鳥取県、と長い旅路の道である。国道9号とは趣を異にする山中の道で、酷道としても知られているようだ。鳥取県と岡山県の県境を4回も通過するが、その峠は東から辰己峠、人形峠、福本峠、内海乢という。

福本峠から内海乢までは、雄大な蒜山高原を通過する。蒜山ICの入口を過ぎて、県道58号北房川上線に入ろう。少し走ると左手に何やら説明板がある。

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車を停めて説明板を読むと、次のような内容だった。

波作利城跡
真庭市指定文化財 史跡
南田集落の南側、北へ延びる狭く細長い尾根(標高七〇〇m付近)には、中世の山城跡が残っている。この城を波作利城(または波佐利城)という。
六つの郭面を南北に連ね、その外側にも郭面を二つ設けている。また、郭面の間には四本の堀切が作り出されている。このほかに、土塁や小規模な石積みも頂上付近にみられる。
「作陽誌」によれば、室町時代、この城は赤松氏の家臣、岩倉晴時の居城であった。しかし、康安二(一三六二)年、因藩伯耆(現在の鳥取県)の守護である山名時氏・師氏父子の攻撃によって落城し、春時もまたあえない最期を遂げたと伝えられる。
真庭市教育委員会

赤松氏の家臣岩倉氏の居城だったという。この近くにある「徳山屋敷」は、波作利城家老職の徳山氏の屋敷だとも、城主岩倉氏の冬季居城だとも言われている。

では波作利城はどこにあるのだろう。城跡らしき遺構は近くにない。正面の山がそうなのだろうか。アクセス道を求めて地図を見ると、背後から近付くことができそうだと分かった。

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真庭市蒜山本茅部(ひるぜんほんかやべ)と蒜山西茅部(ひるぜんにしかやべ)の境に「波作利(はさり)城跡」がある。写真は城の南を画する堀切だ。草木に覆われて遺構が分かりづらく眺望は利かない。

『真庭郡誌』を調べると、さらに詳しい歴史が記されていた。第十三章古蹟及古墳墓より

波作利城趾
川上村大字西茅部字波作利にあり岩倉権頭晴時の居城なり権頭は赤松家に随従し康安二年(則貞治元年)山名伊豆守時氏嫡子同右衛門左師氏父子軍勢を催し美作国襲来赤松家麾下之城々悉く責落す権頭又此役に戦死し居城没落す家老徳山将監一時山名氏に従って年月を送り後赤松上総介義則美作守護職となるに及び旧主に従ひ此地に住す。

康安二年即ち1362年当時の美作国守護は、赤松円心の子貞範であった。そこへ伯耆を拠点とする山名時氏師義(師氏のこと)父子が攻めかかる。室町幕府の四職として並び称される赤松山名両氏がなぜ激突するのか。

このころ山名時氏は幕府と対立する足利直冬や南朝と結んでいたのだ。美作に勢力を拡大した山名氏は、貞治二年(1363)に時氏の子時義が美作国守護に任じられる。

山名時義に続いて義理が守護識を継いだが、明徳の乱後の明徳三年(1392)に赤松円心の孫義則に美作国守護が与えられた。これに伴って、岩倉氏家老だった徳山将監が復帰したというのである。

戦国時代と同様に南北朝期も戦乱の時代であったが、ビッグネームが少ないせいか、語られることが少ない。波作利城は美作における南北朝争乱を伝える貴重な史跡と言えるだろう。


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