あらゆる技術は終末期にもっとも発達し、パラダイムシフトによって急速に淘汰される。例えばテレビ録画に便利だったGコードは、地上波アナログ放送とともに消え去ってしまった。以前の記事「城を守る大規模な畝状竪堀群」で見たように山城も終末期に最も発達し、天下統一でその役割を終えた。本日は終末期の古墳を紹介する。
真庭市上中津井に国指定史跡の「大谷(おおや)・定(さだ)古墳群」があり、中でも「大谷1号墳」が最も有名だ。
国の史跡に指定されるのは、それほど簡単なことではない。きちんと整備されていることはもちろん、歴史上の意義が明確でなくてはならない。この地は古代吉備のど真ん中に位置する。いったいどのような古墳群なのだろうか。まずは説明板を読んでみよう。
史跡 大谷・定古墳群
平成20年3月28日指定
真庭市上中津井の地では7世紀に入ってから、定東塚・定西塚・定北・大谷1号・定5号・定4号という6基の横穴式石室の方墳が次々と築かれました。これらを総称して大谷・定古墳群といいます。
6基の各古墳はいずれも、石垣状の列石を有する段構造の方墳であることを大きな共通点としており、技術的に一連の系譜上にあることを示しています。
出土遺物をみても、大谷1号墳の環頭大刀や定東塚古墳の金製品に代表される豪奢な副葬品などから、大谷・定古墳群の被葬者がこの地域を治めていただけの首長にとどまらない、かなり広域に影響を持つ特殊な立場の人物であったことが十分に考えられます。
7世紀代というこの時期の古墳が特定の地域に集中し、連綿と築かれるというあり方は西日本でも大変珍しく、そのことから大谷・定古墳群は国の史跡に指定されました。
真庭市教育委員会
大化の薄葬令が出されたのが大化二年(646)。7世紀半ばに古墳時代は終焉を迎えていた。その頃に集中して築かれたのはなぜか。葬られているのは「かなり広域に影響を持つ特殊な立場の人物」だという。これについては後で紹介する。同じ説明板に「大谷1号墳」の解説があるので読んでみよう。
大谷1号墳
3段の墳丘と前面に2段の基壇をもつ5段築成の方墳という全国的にもあまり例のないもので、規模は東西で22.7m、南北で16.2m、高さは1段目から墳頂まで8mを測ります。
石室は両袖式の横穴式で、切石を積み上げて築かれています。埋葬には木棺と陶棺の2種類の方法が用いられています。陶棺は大谷・定古墳群中で唯一の須恵質のものです。
かなり特異な古墳だと分かる。古墳群の中では最高位の人物の墳墓と考えられる。その人物とは誰か。手がかりは『日本書紀』にある。巻二十九天武天皇八年(679)三月九日条である。
吉備大宰石川王病之薨於吉備、天皇聞之大哀、則降大恩云々、贈諸王二位
「吉備大宰(きびのおおみこともち)」の石川王が任地の吉備で病により亡くなった。天武帝は大いに悲しみ諸王二位を追贈した。石川王の系譜はよく分からないが、壬申の乱においては大海人皇子に味方し、吉備の地方長官の地位を得た人物だ。備後から播磨にかけて影響力があったらしい。古墳の形状や副葬品が地位に相応しいように思える。
ただし、石川王の墳墓は福山市新市町常の尾市古墳(十字塚)とも言われているし、福山市芦田町上有地の国司神社は石川王を祭神としているという。こちらのほうが大谷1号墳に比べて古代の大動脈、山陽道に断然近い。どちらに石川王は眠るのか。よく分からなくなってきたので、次に進もう。
大谷1号墳から国道313号を隔てて「定東塚・西塚古墳」がある。写真では右の開口部が東塚、左の木の場所に西塚がある。
終末期古墳のすごさは外見では分からない。その神髄はお宝が見つかったという横穴式石室にある。説明板を読んでみよう。
定(さだ)東塚・西塚古墳
この古墳は、それぞれに横穴式石室をもつ、東塚と西塚の2基の方墳で構成されています。
石室は、いずれも古くから開口していましたが発掘調査の結果、東塚の石室からは4基の陶棺が出土し、西塚からも6基の陶棺と、木棺の痕跡がみつかりました。
東塚の石室からは、純金のリング2点や金糸をはじめ、鉄刀や鉄幹などの武器、金銅で飾った馬具、鉄製の鋤先や、須恵器・土師器など、多量の副葬品が出土しています。純金のリングや金糸は、全国的にもめずらしいものです。
西塚の石室からも、方頭大刀と推定される刀の装具や、馬具、鉄鏃と、須恵器・土師器などが出土しています。
陶棺の形や出土した遺物によると、東塚は、7世紀前半につくられ、続いて西塚が築かれたようです。
なお、東塚の墳丘は、石垣状の段をもっており、そこには数回の修築のあとが認められ、最終的には5段の構造となったと推定されます。
定東塚・西塚古墳は、この地域の特異な終末期古墳群のなかで、最古の段階に位置づけられるものです。
しっかりした造りの石室に入ってみよう。上が東塚、下が西塚である。現在はすっからかんだが、石組の高度な技術が見て取れる。
大谷1号墳の被葬者との関係はどうなのか。石川王の親族なのか臣下なのか。
山路を進むと、もう一つの終末期古墳「定北古墳」がある。
こちらもパッと見では大したことない。説明板を読んでみよう。
定北(さだきた)古墳
定古墳の背後に位置する丘陵の斜面に築かれた、3重の列石をめぐらす整った形の方墳で、南辺で21.0メートル、東辺で25.3メートルの規模をもっています。
南に向かって開口する横穴式石室は、この地域でとれる礫岩の切石でつくられており、全長10.2メートルをはかります。
石室からは、4基の陶棺と、1基分の木棺痕跡が確認され、銅椀の蓋や、大刀、鉄鏃、斧状鉄製品や、須恵器などと、やや新しい時代の蔵骨器が出土しました。3号陶棺の蓋と身には、「記」の文字が刻まれていました。
陶棺や須恵器などから、この古墳は、7世紀の半ば過ぎに築造されたことがわかっています。定古墳ー定北古墳ー大谷1号墳という首長墓の系譜がうかがわれ、石室に用いられた石材の加工技術にも、徐々に発達がみられます。
5人分のお墓だということか。石材は礫岩だという。実際に見てみよう。
こちらも頑丈な造りだ。気になるのは「定古墳ー定北古墳ー大谷1号墳という首長墓の系譜」である。石川王が中央から派遣された役人であれば、このような首長墓の系譜に入ることはないように思える。ますます分からなくなってきた。石川王の墓、そして政務を執った場所はどこか。天武天皇に信頼された男の行方を知りたい。