その道に詳しい人なら、おそらく棺桶をテーマに歴史を書くことができるだろう。まだ入りたくないが、現代ふつうに使われている木材の棺桶は、古代から連綿と受け継がれてきた人間最後の安住の地である。
現代の棺桶に使われているのは、桐、樅、檜、杉、檜葉など値段によって様々だそうだ。香りのいい木材なら生きているうちに入ってみたいものだ。本日紹介の古墳からも木棺が出土したというが、どのようなお棺だったのだろう。
鳥取県東伯郡湯梨浜町上橋津に国指定史跡の「橋津古墳群」がある。
古墳群のうち最大なのが「橋津4号墳(馬ノ山4号墳)」。山陰有数の巨大前方後円墳である。写真は後円部から西向きに撮影している。古墳の北入口にある説明板を読んでみよう。
国指定遺跡
橋津・馬ノ山四号墳(橋津古墳群)
昭和三十二年六月三日指定
橋津・馬ノ山四号墳は四世紀に造営された東伯耆を代表する大型前方後円墳で、東から西にゆるく下降する尾根に、前方部を西に向け、赤土を盛り上げて築かれている。推定全長は百十メートルといわれているが、後に橋津台場築造のため前方部を削り取られたため、現存する長さは九○メートル、後円部の直径五十五メートル、高さ九メートル、前方部幅三十五メートル、高さ六メートルとなっている。昭和三十一年、竪穴式石室や箱式石棺、円筒埴輪棺等の発掘調査が行われた。
長さ八・五メートルの竪穴式石室は板石を十五段ほど積み上げて造られており、室内は深紅に彩られていた。室内には推定二・七メートルの割竹形木棺があり、中国製の三角縁神獣鏡や日本製の画文帯神獣鏡、翡翠製勾玉、石釧、車輪石、さらに棺外には刀剣類が副葬されていた。その他の埋葬施設からも、数多くの貴重な副葬品が出土しており、それらの出土品の一部は、現在、湯梨浜町羽合歷史民俗資料館に展示されている。
湯梨浜町教育委員会
まず深紅に彩られた8.5mの竪穴式石室に驚く。三角縁神獣鏡が33面も出土して有名な黒塚古墳の石室でさえ約8.3mなのである。その中に納められていたのは2.7mの割竹形木棺。槙(まき)の自然木を二つ割りにして中をくり抜いて舟型にした木棺だそうだ。そして、豪華な副葬品は被葬者の社会的地位の高さを示している。ハワイ風土記館への入口にも説明板があるので読んでみよう。
国指定史跡
橋津古墳群(指定年月日 昭和32年6月3日)
日本海と東郷池の間の丘陵上に、4世紀から6世紀後半にかけて5基の前方後円墳と19基の円墳が築造されており、馬ノ山古墳群とも呼ばれている。
このうち最大のものは橋津4号墳(馬ノ山4号墳)で、推定全長約100m、後円部径55m、高さ9mの前方後円墳である。後円部中央には全長8.5m、幅0.85mの長大な竪穴式石室が確認された。
石室内には、割竹形木棺があり、棺内には、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡、内行花文鏡など5面の銅鏡のほか、ヒスイ製の勾玉、車輪石・石釧といった腕輪形石製品、棺外には刀剣類が副葬されていた。
このほか、後円部・前方部に箱式石棺、埴輪棺など5基、墳丘斜面や周辺にも多数の埋葬施設が確認されている。
2号墳とともに、古墳時代前期末ごろ(4世紀後半)に築造されたもので東伯耆で古い段階の前方後円墳の1つである。橋津4号墳の出土品は湯梨浜町羽合歴史民俗資料館などに展示されている。
平成26年3月 鳥取県教育委員会
羽合平野と東郷池を押さえた有力者で、東伯耆を代表して大和王権と深い関係を築いていたのだろう。この4号墳からは埋葬施設が多数見つかっている。血縁者が追葬されたのだろうか。
その後、竪穴式石室は造られなくなり、しばらくすると古墳そのものが築かれなくなった。死者を納める石棺や陶棺は古墳とともになくなり、甕棺は江戸時代まで続き、今も利用されているのは木棺だけとなった。
現代の木棺はもっぱら箱形だが、古墳時代には石棺が箱形(箱式)であった。割竹形木棺は地域の有力者を葬る特別仕様なのだ。現代は彫刻を施した高級お棺があるが、いくら地位のある人でも割竹形木棺は使用しない。長くて炉に入らず、短くても燃えにくいので、火葬場が困るからだろう。
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