ふるさと創生一億円事業は全国で笑いあり涙ありの大騒動となったが、一番の成功例は島根県益田市だろう。雪舟筆『益田兼堯像』を益田家から購入したのである。現在は雪舟の里記念館の一番の売りになっているし、これからも故郷の誇りとして大切にされるに違いない。
同じ山陰に鳥取県東伯郡羽合町があった。今の湯梨浜町の一部である。「日本のハワイ」こと羽合町は、もらった一億円で『伯耆ロマンの里「ハワイ・馬ノ山公園」整備事業』を展開し、平成4年に巨大な展望台を建設した。
この建物を「ハワイ風土記館」といい、湯梨浜町ホームページによると「古墳(埴輪)と城をイメージ」しているという。しかし、城にも見えなければ、古墳とも埴輪とも違う気がする。むしろ土偶のほうが似合うような…。
さらには、なぜ「ハワイ」はカタカナなの?「風土記」は「ハワイ」とセットでいいの?と、名称までツッコミどころ満載のユニークな建造物だ。それでも、観光情報で今も紹介される現役の施設なのだから、閉鎖された村営キャバレーや盗まれた純金カツオ像よりも、よほど適切な使い途であった。
「古墳(埴輪)と城をイメージ」は本当なのかと湯梨浜町ホームページ内を調べると、『新修羽合町史』(1994)第19章「ふるさと創生事業」に、「目玉となる建物の完成予想図」が掲載されていた。その図版には次のような衝撃のキャプションが付されていた。
山頂に落ちたUFOをイメージに基部、胴部、頭部の3層構成。基部は城壁を思わせる石積仕上で、頭部は近代的なドーム
やはりそうだったのか。どことなくオカルティックな雰囲気があると思ったら、最初からそのように意図されていたのであった。おそらく「埴輪」のイメージは「基部、胴部、頭部」から、「城」のイメージは「城壁を思わせる石積」から来ているのだろう。
鳥取県東伯郡湯梨浜町上橋津(かみはしづ)のハワイ風土記館前に「馬の山砦 土塁の跡(一部)」がある。
風土記館に城のイメージを持たせようとしたのは、この山が実際の城砦だったからだ。説明板を読んでみよう。
戦国時代の古戦場であった馬の山には砦(とりで)の跡として、こうした土塁が多く残っている。
どのような縄張で、誰が布陣したのか。山上の道をもう少し南へ進むと馬ノ山展望台があり、そこには次のような説明板がある。
馬ノ山の対陣
馬ノ山は羽柴秀吉軍と対戦するために吉川元春が陣取った所である。秀吉は天正九年(一五八一)十月二十五日に鳥取城を陥落させ、ついで羽衣石城の南条元続救済のため伯耆に進出し御冠山に布陣して馬ノ山の元春軍と対峙した。
秀吉軍の兵力は六万、迎え撃つ元春軍は六千であったが大軍を迎えても動ぜず、橋津川の橋をことごとく落とし、備えていた数百の舟はすべて陸上に引き上げ櫓は残らず折り捨てて背水の陣を敷いた。
秀吉は元春の覚悟のほどを知り、戦わずして軍を引き上げ、元春軍も馬ノ山を開陣し、出雲にひき上げたという。秀吉・元春の両雄は互いにその器量を認め合い戦わずしてわかれたのである。もし戦っていたとすれば、その後の日本の歴史は変わったものとなったかもしれない。
平成四年三月 湯梨浜町教育委員会
ここ馬ノ山に吉川元春が陣取り、その南東に位置する御冠山(みかんむりやま)には秀吉が布陣した。兵力は三千対六万という大差。大軍を擁する秀吉の圧勝かと思われたが、元春の覚悟のほどを見て秀吉は引き揚げたという。詳しいことを江戸中期成立の『伯耆民談記』巻之第十一河村郡古城之部「羽衣石の城南條伯耆守数度合戦の事附り滅亡跡方の事」で読んでみよう。
かくて秀吉は鳥取の城を請取宮部善祥坊継潤に与へ、一国を平定して帰陣の用意せる所に、南條小鴨より飛札を以て、吉川元春馬の山へ着陣、当城へ取り懸るよし、早々加勢を給ふべしと告来たる、秀吉其意にまかせ鳥取を出発して、鹿野亀井新十郎が城に一宿して、翌日同郡青谷の庄へ押出し、鎧畑へ陣をぞすへたりける、吉川元春は同廿五日人数を馬の山へ押上げ、小勢なれども因州へ打入るべしと軍議し、翌日は因州大崎迄出はりせんとする所に、鳥取落城の由聞へしかば、此上は是非に及ばず因州へ踏込み存亡を賭して一戦して我が運命を試さんとて将に打立んとせり、間もなく秀吉南條小鴨援助の為伯州え発向する由、注進によって知れければ、然らば此所に待受けんとて馬の山に陣を構へたり、秀吉は鎧畑を立て伯州へ打入り羽衣石に続きたる大山に上りて、馬の山を目の下に見下しけるが、三万に余る軍勢なれば夥しき事いはん方なし、吉川は六千に足らざる小勢といひ、敵を笠に受けて一日もこらえ難く見えしかども、元春元来天下に聞こえたる勇将なるが上に、鳥取を攻め取られたる無念骨髄に徹し居ければ、勇気百倍して少しも騒がず、橋津川の橋を焼きはらい、浜手の船を陸に引上げ討死の覚悟を示し待かけたり、斯くて対陣三日に及びたるに、秀吉此様子を見下し敵是程に思い切ったる上は、小勢なりとて卒爾には戦い難し、万一食付かれ長陣に及びなば、土地不案内の味方雪中に向ひての進退自由ならず敗軍の端ともならん、早く引取るべしと軍議有って、南條小鴨を召出し敵小勢なれば攻寄る事有るべからず、来春に至らば重て当国へ打入、西伯耆より雲州筋を平定すべし、その間はおちどなき様籠城すべしとて、制法堅く申含め、鉄砲三百挺、弾薬を添へて加勢し、兵糧を丈夫に入置き、廿八日陣を払て播州さして帰陣ある、吉川も小勢なれば因州へ取りかゝる事もならず、重て大軍を催し羽衣石を攻破り、因州へ押入り鳥取を取り返すべしと、南條が領分に放火し、西伯耆の仕置杉原播磨守に申付、芸州に引入りける、
秀吉勢の数は六万ではなく三万だという。陣を敷いたのは「羽衣石に続きたる大山」とするが、御冠山は羽衣石城の峰続きとは言えない。『伯耆民談記』よりも前に成立した『陰徳太平記』には、次のように記されている。
元春父子四人さあらば於是処秀吉を待受、一戦さ可遂とて、其のまゝ馬野山に陣を居給、(中略)吉川元春出陣にて候と、伯州より告来ける間、秀吉さらば此勢ひに吉川を可討取とて、同二十七日羽衣石山続の高山へ打上、馬野山を山足に直下して屯を張給、其勢兼ては八万騎、又は六万余騎共聞えしが、左こそいへ只今打出る所の軍兵、四万四五千もや有んずらんと見えたり、
秀吉勢はなんと最大八万、少なくとも四万四五千には見えたという。陣を敷いたのはやはり「羽衣石山続の高山」であって、御冠山ではなさそうだ。近代の史書ではどうだろうか。明治四十年発行の『東伯郡誌』第二章「沿革」八節「南條氏(二)」に、次のように記述されている。
天正九年羽柴秀吉大挙して鳥取城を囲む、元春之れを援はんと欲し兵六千を提げ馳せて伯耆に至れば、鳥取已に陥る、元春馬ノ山に在り、将に羽衣石岩倉両城を攻めんとす、秀吉之れを聞て宮部継潤に謂て曰く、二城若し抜けば敵勢之れより大ならん、速かに救はざる可からずと、即ち継潤を以て先鋒となし、伯耆に向はしむ、秀吉継で至り羽衣石の山後に陣し、元春と相持す、
ここでも御冠山は登場していない。まさか御冠山を「羽衣石の山後」とは表現しないだろう。本当に秀吉は御冠山に陣したのだろうか。羽衣石城と峰続きの山ではないのか。いや、本当に元春と秀吉の対陣はあったのか。ならば御冠山はいつどのように登場したのか。
歴史の謎が尽きることはない。確かなのは、ハワイ風土記館が山頂に落ちたUFOだったことだ。
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