安倍後は安倍、なのか岸田なのか石破なのか、いや聖子ちゃんかもしれない。内閣改造を経て支持率が少々回復しているが、安倍さん自身への信頼度が低下しているので、超長期政権はもはや困難とみる向きもある。自民党の後継争いはすでに水面下で始まっているようだ。
後継争いで体力を消耗した戦国大名に四国の覇者、長宗我部氏がいる。本拠地だった岡豊城跡を訪ねていると、路傍に一つの墓を見つけた。
南国市岡豊町八幡(おこうちょうやはた)に「伝香川五郎次郎親和(ちかかず)の墓」がある。
親和は、あの有名な長宗我部元親の次男である。香川氏はその名のとおり讃岐の土豪であった。香川信景は織田信長と結んで家を守ろうとしたが、長宗我部氏の攻勢に抗しきれず、天正九年(1581)に親和を養子に迎え軍門に降った。
ところが、天正十三年(1585)の秀吉による四国征伐によって香川氏は改易となり、親和は大和郡山に人質となって送られる。その後の運命は、説明板を読んでみよう。
元親の次男親和は、讃岐の香川家を継いだが、秀吉の四国征伐によって香川家は改易となり、親和は人質として郡山に居た。後岡豊に帰り東小野村に蟄居して居た。元親の長男信親戦死の直後、この親和に対し、秀吉の使いが土佐に下り、朱印状が与えられたと言われるが、世継ぎの件が四男盛親にきまると、彼は快快(おうおう)として楽しまず遂に病死した。
累代の墓に葬られず一人淋しく眠っている。
南国市教育委員会
天正十四年暮れ、秀吉の九州征伐における戸次川(へつぎがわ)の戦いで、長宗我部家期待の後継者、嫡男信親が討ち死にしてしまう。後継順は次男親和のはずだったが、元親が指名しようとしたのは四男盛親だった。
このことで家中は分裂し、元親の抵抗勢力は粛清されてしまった。「快快として楽しまず」とは、不満が募って楽しくないさまを言う。病が気から来たのか、親和は天正十五年(1587)に亡くなってしまう。
親和は一時期、秀吉も認めた後継者であったが、お家の事情でポスト元親の座を確保できなかった。その死を思えば、後継者になったとて、元親並みに長宗我部家を維持できたか疑問だが、いわゆる「いい人」だったことは間違いあるまい。
武将もそうだが、政治家に必要なのは「運根鈍」である。周囲に頭を下げてくれる人は多いが、その外側から隙あらば攻撃が仕掛けられる。少々のことで動じるようでは生き延びれないし、つかめるチャンスがそこに無くてはならない。
長宗我部家でポスト元親の座を手に入れたのは盛親であったが、関ヶ原で西軍に属し改易となり、その後、大坂の陣で刑場の露と消えた。権力の座を維持するのは至難の業なのだ。そんなポスト安倍の座を、誰がいつ手にすることになるのだろうか。まさか民進党の下剋上はないだろう。