今日10月31日はハロウィンだが、ルターの宗教改革から500年となる記念日でもある。世界史における近代の潮流の一つは、ドイツのウィッテンベルクから始まった。そこで、ルターが95か条の意見書を貼った教会でもレポートすれば面白いのだが、行ったことがない。代わりにもならないが、日本の美しい城をレポートする。
今年4月の名古屋市長選で4選を果たした河村たかし氏は、当選の夜、両手に花束、頭には名古屋城のかぶりものという姿で支援者に祝福されていた。かねてからの公約、名古屋城の木造復元を強力に推進する決意の表れだ。一応、市民のお墨付きを得た形にはなっているが、莫大な費用をどのように賄うのか。
天守を再建する意義はいろいろある。地域のシンボル創出、観光の起爆剤、地元企業の活性化、文化財の忠実な復元…名古屋市民は何に期待して一票を投じたのか。
郡上市八幡町柳町一ノ平に「郡上八幡(ぐじょうはちまん)城」がある。奥美濃の天空の城として知られる観光名所である。
遠藤盛数・慶隆、稲葉貞通によって築かれ、藩政期は遠藤氏(無嗣断絶)、井上氏(移封)、金森氏(改易)、青山氏(幕末まで)が城主となる。明治初年に建造物は解体され、石垣だけが残った。城跡として保存状態がよいことから、昭和30年に「八幡城跡」として岐阜県の史跡に指定されている。
また「八幡城」は、昭和62年に市重要文化財(建造物)にも指定されている。この天守のことだ。実はこの天守、江戸時代からの建造物ではない。なのに、なぜ文化財に指定されているのか。
ここで天守の種類をおさらいしよう。最も価値があるのが現存天守で12ある。坂井市の丸岡城は日本最古(天正4年)の現存天守と言われている。復元天守はかつてあった天守を復元したもので、外観のみの鉄筋コンクリート製と内部の再現を含む木造がある。名古屋城は木造の復元天守を目指しているのだ。復興天守はかつてあった天守を想像により再現したものだ。大阪城は日本最古(昭和6年)の復興天守で国の登録有形文化財である。
これらに対して、模擬天守は天守の実在が確認されないままに建てられた天守である。日本最古の模擬天守は洲本城にあり、昭和3年の鉄筋コンクリート製である。今日紹介している郡上八幡城は、昭和8年の木造模擬天守である。近代になって再建された天守としては洲本城、大阪城に次ぐ三番目の古さで、木造としては日本最古となる。文化財に指定される意義はここにある。
洲本城および大阪城の天守再建は、昭和天皇の即位の大礼を記念した事業であった。では、郡上八幡城には、どのような思いが込められていたのか。郡上市発行「新八幡城ものがたり」には、次のように記されている。
昭和初期は金融恐慌・世界恐慌が経済社会に大きな影を落とす不況の時代であった。昭和七(一九三二)年の秋、天守閣再建の計画が持ち上がった。「こんな時に無謀な築城計画だ」と非難の声があがる中、町長仲上忠平は「こういう時こそ不況に喘ぐ住民救済策の一環である」と決断した。町長の決断には、この事業は町活性化策であるとともに、町の発展ひいては子孫の幸福は、歴史文化の厚さに負うところが大きいとの信念にもとづくものであった。
江戸時代の歴史を伝えるかに見えた郡上八幡城天守は、昭和の歴史を語る証人であった。当時の住民にとっては不況対策、未来の子孫のためには歴史文化を核とした地域創造、町長の先見の明に敬意を表したい。
同じ頃、アメリカ合衆国では、ニューディール政策が進められていた。この時設立されたTVAは、今も電力を供給し住民の生活を支えている。いっぽう郡上八幡城は、今や貴重な観光資源であり文化財である。まさに日本のニューディールであった。
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