読めそうで読めない山に旧津山市内最高峰の「天狗寺山」がある。「てんぐうぎさん」と読むのだが、初めは誤植かと思い二度見したくらいだ。ならば登ってみようと、私は大佐々神社から背後の稜線をたどる山路に足を踏み入れ、とりあえず烏山(からすがせん)に向かった。
津山市大篠、吉見、綾部の境の烏山に「烏ヶ仙(からすがせん)城跡」がある。
ロープにつかまるほどの急坂を上り切ると細長い頂部に至る。なだらかな路をしばらく進むと、眺望のよい平坦な曲輪がある。標高は701m。なぜこのような高所に城があるのか。説明板を読んでみよう。
烏ケ仙城跡(からすがせんじょうせき)
烏ケ仙は、津山市の綾部、吉見、大篠、高倉の境に位置する標高七〇一.ニメートルの山です。烏ケ仙の名の由来については、『作陽誌』所収の「医王山記」の中に「苫田郡有烏之山出薬草有神祭八咫烏也麓有硫黄山出塩湯」(苫田郡に烏の山があって薬草がはえている。八咫烏を神としてまつっている。麓には硫黄山が有り塩湯が湧いている)と書かれています。
ここに出てくる硫黄山が、現在、市内吉見にある医王山です。『作陽誌』によれば「烏ケ仙城は医王山城の向城であったと伝えられ、砦の跡が有り、七~八間(一二.六メートル~一四.四メートル)くらいの曲輪(城を構成する人工的な平坦地)と二本の堀切(尾根を区切る空堀)が残っている」とされています。 烏ケ仙城跡は、山頂にある本丸を中心にほぼ南北にのびる尾根上に曲輪を配置した連郭式の山城で、本丸部分の北側には現在、三重の堀切が残っています。また本丸からもっとも南に位置する曲輪の南端には、石塁をめぐらし、その上に土塁を築いて防備を固めています。
この城は、戦国時代に枡形城や利元城の城主として活躍した福田氏の一族の持ち城であったと伝えられています。
ひと口に「城砦」というが、籠城して身を守る「城」と敵を牽制する「砦」がある。烏ヶ仙城は砦である。深呼吸をしたくなるほどの眺めのよさだ。ただ何故に高いのか分からない。誰が700mの高所に攻撃を仕掛けるというのか。
ヒントとなるのは「福田氏の一族の持ち城」である。桝形城の毛利方武将、福田盛雅は医王山城も預かったという。烏ヶ仙城は医王山城の背後を見守る位置にあり、両城は一体となって宇喜多勢と対峙していた。天正八年(1580)のことであった。
城の北側は「三重の堀切」で侵入を防いでいる。私は逆に城から討って出よう。向かうは台形の山、天狗寺山。けっこう距離がありそうだ。その右は吉見仙。帰り道で迷い込んでしまう山だ。
しかもこの後、私はまっすぐ進まず、西側斜面を下って車道の峠道に出た。以前に車で加茂に抜けようとした時、路面が大きく崩落しているのを見て真っ青になったことがあった。そのリベンジというわけではないが、今回は崩落個所を歩いて越え、下茅峠から天狗寺山にアタックしたのだ。
津山市大篠と加茂町行重、加茂町成安との境に「天狗寺山」がある。急斜面を休みながら登り、やっとのことでここまで来ることができた。
二等三角点「大篠」がある。831.5mだから眺望は抜群だが城跡ではない。エフエムつやま送信所のために車道がついている。これを下りそうになったが、「まてよ、ルートは尾根筋にあるはず」と思い返し下り口を見つけることができた。
急斜面を下ったものの、鞍部で進路を間違え、別の尾根を登ってしまう。その時はとにかく帰ることに必死で、ルートを疑うなんて思いもよらぬことだった。しかし、それはラッキーな城跡探訪ルートだったのである。
津山市吉見と加茂町成安の境に「吉見仙(よしみせん)砦跡」がある。
近世地誌類に記録がない城である。毛利方の兵站基地であった桝形城と、最前線で戦う医王山城との位置関係から、食糧補給ルートを確保するための砦だったと考えられる。
眺望がよく烏ヶ仙城跡も見えていたはずだ。尾根筋を進めば帰れると信じていたから、ルートを間違えているとは知らずどんどん進んだ。すると、また砦に行く手を阻まれた。
津山市吉見と加茂町成安の境に「梶間山城跡」がある。写真は横堀であり、この上に土塁で囲まれた曲輪がある。草木を刈って整備すれば、技巧的で美しい山城が現れるだろう。
土塁の上に立つと眺望がよいことが分かった。しかし、どうも見たことのない風景だ。「間違えた!」ここまで来てやっと気付いたのである。既にヘロヘロながらも天狗寺山近くの鞍部まで戻り、烏ヶ仙城跡を経て、やっとのこと下山したのであった。
いったい自分はどこを歩いたのか。あの技巧的な城跡は何だったのか。2010年発行『美作国の山城』の記載に誤りがあるためしばらく謎が解けなかったが、2020年発行『岡山県中世城館跡総合調査報告書 美作編』を見てやっと分かった。自分探しの旅が完結したのである。