備中聖人と呼ばれた山田方谷を大河ドラマ化しようと先月8日、伊原木岡山県知事、高梁・新見の市長など政治家、大橋洋治ANAホールディングス相談役など財界人が、NHKを訪れ要望書を提出したそうだ。大橋さんは高梁の方である。山田方谷の志に学ぶ国会議員連盟という団体もある。加藤勝信前官房長官が会長を務めている。方谷先生にあやかって財政危機を立て直そうとしているのだろう。
登城口に「山田方谷先生ゆかりの地」と示された標柱のある山城に行った。備中松山城ではない。とりあえず登ってみよう。
真庭市下中津井に「佐井田城跡」がある。市指定史跡である。才田城とも書く。
山城はやはり眺望である。北東方面の視界が抜群だ。
国道313号、中国自動車道、旧北房町中心部を望むことができる。特に美作からの侵入者に睨みを利かすのに適している。どのような武将が守備していたのだろうか。説明板は山上になく、国道からの入口に設置されている。
佐井田城跡
標高332mの山上にある山城跡です。鎌倉時代初期の築城で文治2年(1186年)山田駿河守重英の居城であったといわれています。その後戦国時代に庄氏の一族植木下総守藤資が城主となり、以来その子下総守秀長、孫下総守秀資へと受け継がれました。戦乱の続く中、備中北部攻防の中心城で、津々の加葉山城と連係し、要害堅固な備中三名城のひとつとたたえられました。
町指定史跡
備中三名城とは備中松山城・備中猿掛城・備中佐井田城のことだそうだ。最初に登場する「山田駿河守重英」が山田方谷先生のご先祖にあたる。山田氏は尾張の出身で、承久の乱で京方として活躍した山田重忠は同族である。重英は源範頼に従って平家と戦い、備中に領地を得て移住したという。
時は移って戦国の世、一次史料によって対立の構図を描いてみよう。元亀二年(1572)、西からは毛利氏、東からは浦上氏が備中と美作の国境付近で対峙した。主力の武将は毛利勢が三村元親、浦上勢が宇喜多直家で、九月四日に決戦が行われ、宇喜多が勝利する。これにより浦上氏は備中進出の足掛かりを得ることができた。この時まさに、浦上宗景の最盛期であった。
ところがその後、毛利勢の猛反撃があったらしく、翌三年(1573)に佐井田城は毛利方に明け渡されることとなった。これも一次史料で確認できる。では、佐井田城主の植木氏はどうしていたのか。二次史料の軍記『陰徳太平記』巻第四十七「尼子勢備中国発向付毛利元清討植木資富事」には、およそ次のような展開が描かれている。
元亀元年(1571)、尼子再興軍の勝久と宇喜多直家が同盟して備中に進出しようとしていた。毛利方の植木秀資は「此口部(あざい)ノ城」で抵抗したが、ついに尼子方に降伏する。「斎田ノ城」には尼子方の検使大加駿河守が入った。
危機感を感じた毛利方は猛反撃に転じ、三村元親に松山城を攻め落とさせる。この勢いに抵抗をあきらめた植木氏や庄氏は出雲に落ち延びて行ったが、植木資富(すけとみ)だけは「斎田ノ城」に立て籠もって抵抗したが、ついには討ち取られたという。
この話はそもそもありえない。元亀年間に尼子再興軍が備中に進出した事実はない。尼子勢を浦上勢とするならば、少し史実に近くなるだろう。植木一族は北房を代表する国人領主で、浦上勢に与同していたらしい。
佐井田城は独立峰の頂上にあるのではなく、斎田山の尾根先端頂部に位置している。このため城西側の尾根続きに二重の堀切を設け、守りを固めている。天正二年(1574)、佐井田城は三村氏の毛利離反により三村方となったものの、すぐさま毛利方の庄勝資が取り戻す。その後も毛利勢の重要な拠点だったようだ。
「山田方谷先生ゆかりの地」というが、数百年前のご先祖が関係しているにすぎない。それよりも、浦上方や毛利方の最前線として戦国史に名を残す城である。さすがは備中三名城に数えられるだけの戦歴を有している。
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