その日は東京湾大華火祭の日だった。勝どきの辺りだったか自転車で花火を見に行った。もちろん最初から飲む気でいた。ビールは何でもよかったが、つまみはこだわってみたかった。佃島を通る。ここにきて佃煮を買わなかったらモグリだろう、と自分に言い聞かせて、一番値段の高いうなぎの佃煮を老舗の天安で買った。
中央区佃一丁目に佃煮の店「天安本店」がある。天保八年創業で、元号と創業者の名前・安吉から「天安」を商号としたのだという。
6月29日は「佃煮の日」である。試みに全国調理食品工業協同組合のウェブサイトを開いて見られよ。つくだ煮の「ツクちゃん」と神主さんがその由来を語ってくれる。このおちゃめな神主さんは、佃島の住吉神社の神主さんのいとこのはとこの同級生の…と、わけがわからないが、住吉神社は佃煮と深い関係があることを力説していた。
住吉神社を崇敬していた佃島の漁師さんが雑魚を煮詰めて保存食を作ったことが佃煮の発祥らしい。記念日となっている6月29日は、住吉神社が正保三年(1646)に創建されたことにちなみ大祭が行われていた日である。もっとも、29の2をツーと読ませ9はクで、つくだ煮の語呂合わせになると言ってツクちゃんがはしゃいでいた。
さらに調べてみると、面白い話が見つかる。小学館『食材図展Ⅱ』の「佃煮」の項に次のようなエピソードが掲載されていた。
本能寺の変が生んだ佃煮
1582年(天正10)6月4日、明智光秀によって織田信長が討たれたとき、徳川家康はわずかな手勢とともに堺の地にあった。家康は領地の駿河国岡崎へ戻ろうとしたが、大阪の神崎川を渡る際に近くの摂津国西成郡佃村の庄屋に多数の漁船の提供を受け、さらに道中食として小魚の煮物をもらい受けた。90年に家康が江戸城に移ると、その庄屋の森孫右衛門と漁民が徳川家の御肴役として招かれた。三代将軍家光のとき、彼ら漁民は生活の場として現在の佃島の地の干潟を使用できる許可を与えられ、1644年(正保元)ここに島を築造した。江戸幕府への魚の献上を続けながら、漁獲した魚を江戸市民に売り、備蓄食品として、昔から伝えられてきた雑魚の醤油炊きをつくり始めた。これがやがて諸国の大名に、さらに庶民にも広まり、佃煮として全国にその名を知られるようになったのである。
本能寺の変は6月2日で、4日は家康が岡崎に戻った日であろう。それよりも本能寺の変と佃煮が見事に結びついていることに感心する。この話を活用したのが6月2日の「甘露煮の日」である。愛知県の甘露煮メーカー、株式会社平松食品のウェブサイトに詳細が記されている。6と2で「かんろに」だという。やはりここでも語呂合わせだ。
佃煮と甘露煮と似ているような違うような…、ま、キャンペーンによって多くの人がおいしさに気付いてくれたらよいのだ。6月2日はいつの間にか過ぎていたが、「佃煮の日」には気付いたので佃煮を食べたくなった。材料はいろいろあるが、やはりアサリがおいしいと思う。