前回の記事をアップしてから今回までの間に1日平均アクセス数が30を突破した。これも皆様方の検索のおかげと感謝申し上げたい。これからもますます有益な記事を書こうと思う。本日は記念として人気ナンバーワン武将の織田信長を取り上げよう。
「日本100名城」は平成18年に日本城郭協会が定めたリストである。地域のシンボルとなっている城が軒並み入選している。岐阜市のシンボル、岐阜城は下の写真のように天守を市街地から遠望することができ、夜間はライトアップされている。下から見上げるのもよいが、市街地を一望するのもよい。ゴールデンウィーク中は天守から21:30までパノラマ夜景を楽しむことができる。
岐阜城のある山を金華山という。金華山といえば三陸のそれを思い出すが、こちらは内陸の山で、もと稲葉山と呼ばれた。写真は長良川に架かる金華橋から撮っている。今でこそ岐阜の代表的な風景であるが、江戸時代には天守はもちろんのこと、岐阜城が存在しなかった。
岐阜市千畳敷下に「織田信長居館跡」がある。国指定史跡の一部である。関ヶ原の戦いの後に廃城となった岐阜城は、信長が城主の時代にもっとも繁栄していた。
このあたりは岐阜市教育委員会の努力で発掘調査が進み、随分とかつての様子が明らかになってきた。この城を訪れた人物にルイス・フロイスがいる。彼の手紙によって岐阜はヨーロッパに知られた国際都市となっていく。
1569年(永禄12年)7月12日付けの書簡には、次のような記述がみられる。(髙木洋『宣教師が見た信長の戦国』風媒社より)
この宮殿は、二年前信長が武力をもって奪い取った、この美濃国の主城がある非常に高い山の麓に建てられています。宮殿の外側には、石灰をまったく使わず、(面積が)広い上に(見事に)完成した石垣がありますが、石は驚くほど大きく、石灰の類をまったく必要としない(ほどぴったりと結合している)ということです。まもなく広場があって、それはゴアのサバヨよりも大きく、その一倍半もあります。入り口には上演や公の祝祭に使う大きな劇場風の部分があります。広場の両側には、木陰をつくるための二本の大きな果樹があります。
フロイスの書簡にはいくつかの写本が存在し、有名な著作『日本史』の他に、『エヴォラ版書簡集』、『アルカラ版書簡集』がある。上記の引用はアルカラ版によるものだが、後になって内容を整理した『日本史』では、石垣の記述が「驚くべき大きさの裁断されない石の壁がそれを取り囲んでいます。」となっている。
いずれにしても巨石が用いられていたことがわかる。その巨石が発掘によって明らかになったのが、上の写真の「虎口」という折れ曲がった通路である。巨石は築城工事や防御に都合が良かったというよりも、壮大さの演出として並べられたと考えられている。
信長が岐阜城に入ったのは永禄10年(1567)、安土城に移ったのが天正4年(1576)。フロイスが来訪した当時、京は勢力下に置いていたとはいえ、周囲に敵はまだまだ多かった。信長としても遠来の賓客に強さを誇示したいところだろう。フロイスは石垣の巨石について驚きとともに本国へ報告している。信長の演出は成功であった。