« 全国屈指の知られざる古墳 | メイン | 備作国境を守った藩家老 »

2020/05/17

コメント

フィード コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。

玉山

詳細な情報を提供いただき、誠にありがとうございます。一族のご繁栄をお祈りしております。

thg

三星軍傳記(小坂田本)によれば、後藤勝基は、側室の婦さが落城の前月に生した男子に従者を付け、母子ともに城から出して、安東氏の居城近くの平田村に隠し、その幼孤を譜代重臣の小坂田織部が五名村(現美作市五名)で我が子として育てました(小坂田氏家伝)。しかし、織部は秀吉の天下になって美作が宇喜多領となり、武家としての後藤家再興を諦めみずからも帰農し、「後藤氏正流作の府に埋メ居」(作の府=美作国神戸郷、現津山市二宮・院庄)とあります。実際に、津山市二宮に後藤氏一族の墓地があり、毎年、城が落ちた4月29日に、墓地の近くに子孫が集まり先祖祀りをしています。ただし、大正末期に一族庶流の一人が博打で作った借金を返済するために、売却したために家系図はのこっておらず、現在は他家の所蔵になっています。その庶流の一家は二宮の一族から離れ、本家を称しています。二宮一族の墓地には五十家の墓石が並び、後藤氏宗家のみが三星上り藤の家紋を刻しています。

玉山

当記事をお読みいただき、ありがとうございました。ご指摘の点、大変勉強になりました。今後ともよろしくお願いいたします。

thg

「大文字焼」はお饅頭の名です。五山の送り火、あるいは右大文字の送り火などと申します。蛇足ながら、失礼しました。

コメントの確認

コメントのプレビュー

プレビュー中です。コメントはまだ投稿されていません。

処理中...
コメントを投稿できませんでした。エラー:
コメントを投稿しました。コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。 さらにコメントを投稿する

入力された文字と数字は画像と一致していません。再度入力してください。

最後に、下の画像の中に見える文字と数字を入力してください。これはプログラムを使ってコメントを自動的に投稿するのを防ぐために行われています。

画像を読み取れない場合は 別の画像を表示してください。

処理中...

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認してから表示されます。

アカウント情報

(名前は必須です。メールアドレスは公開されません。)