朕(ちん)薄徳(はくとく)を以て忝(かたじけな)くも重任(じゅうにん)を承(う)け、いまだ政化を弘(ひろ)めず。寤寐(ごび)多く慚(は)ず。『続日本紀』天平十三年三月二十四日条に記される国分寺建立の詔の冒頭である。
私は徳の薄い身ながら畏れ多くも皇位という大役を継ぎ、いまだ良い政治ができていない。寝ても覚めても恥じ入るばかりだ。聖武天皇の真摯な思いには頭が下がる。この謙虚さはまさに、為政者に必要な徳である。
福山市神辺町下御領に「備後国分寺跡」がある。写真は「南大門(南門)跡」である。
伽藍配置の復元図を見ると、この参道は古代寺院のものを踏襲していると言ってよいくらいだ。
参道を進むと右側に「塔跡」、左側に「金堂跡」の石碑がある。正面の大木の右手辺りに壮麗な七重塔が建っていたことだろう。左手には金堂、正面には講堂があった。金堂が本尊を祀る本堂で、講堂は経典を学ぶ場である。説明板を読んでみよう。
備後国分寺(僧寺)跡
天平十三(七四一)年聖武天皇の発した国分寺建立詔によって、この地に備後国分寺(僧寺)が建立されました。寺の正式名称を「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と称し、律令国家体制の完成期に鎮護国家の経義に基づいて造営されたものです。昭和四十七年度からの四次にわたる発掘調査によって、東西六〇〇尺(一八〇メートル)の寺域が判明し、また塔・金堂・講堂ならびに南門跡の検出により、いわゆる法起寺式伽藍配置をなすことが明らかになりました。南門は古代山陽道に面して開き、立地として重要な位置を占めると同時に、広大な寺域内に残る堂塔の遺構から官寺である国分僧寺の雄大な伽藍の規模が想定されます。
平成十七年三月
福山市教育委員会
神辺町観光協会
塔が東に、金堂は西に位置する法起寺式伽藍配置である。法起寺は斑鳩の里にあり、法隆寺にも近い。国分寺では、能登国分寺、丹波国分寺、備中国分寺が同様な伽藍配置だという。
南門前を東西に通過する広島県道181号御領新市線は、古代山陽道を踏襲しているという。近世山陽道は南大門前で南西へと下り、神辺宿へと向かう。ここ備後国分寺は交通の要衝に設けられたのであった。国分寺建立の詔は次のように指示している。
それ造塔の寺は、兼ねて国の華たり。必ず好き処を択(えら)びて、実に長久なるべし。人に近くは、薫臭(くんしゅう)の及ぶ所を欲せず。人に遠くは、衆(もろもろ)を労(わずら)はしめ帰集(きしゅう)することを欲せず。
七重塔の建つ寺は国の華である。立地条件のよい場所を探し、幾久しく保つようにせよ。人家に近い場所なら臭いの及ぶ場所を避け、人家に遠い場所なら参集するのが煩わしいようではいけない。当時、民家にどれほど近かったのか分からない。お参りしやすい場所だったのは確かだろう。立地にも仏教普及の意図が込められている。
福山市神辺町西中条に「小山池廃寺」がある。
左手の八幡宮に金堂があり、右に塔、さらにその右つまり西に講堂があったという。説明板を読んでみよう。
小山池廃寺
神辺町大字西中条字藤森
小山池廃寺は、白鳳時代末期(七世紀後半)に創建され、平安時代(一二世紀)まで続いた寺院跡です。過去の調査で、東側に金堂(本尊を安置する建物・現在地)、中央に塔、西側に講堂(僧が説教をする建物)が並ぶ珍しい伽藍配置が明らかになりました。
白鳳時代は各地の豪族が仏教文化を積極的に受け入れた時代で、この寺院もこうした背景の中から地元の豪族によって建てられました。
また、備後国分寺と近接し、共通の瓦が出土していることから、奈良時代になって国分尼寺として再利用されたものと考えられます。
平成一六年一月
福山市教育委員会
神辺町観光協会
ここに国分尼寺があったのだ。伽藍配置は東から西へ、金堂、唐、講堂の順に並ぶ。四天王寺式は南から北へ、塔、金堂、講堂の順で一直線に並ぶが、これとも異なる珍しい伽藍配置である。
古代山陽道を往来する人々は、国分僧尼寺の塔を見て新時代の到来を実感したことだろう。その社会的機運の到来こそ、聖武天皇の願いだったに違いない。薄徳が自覚できるくらい高徳の天皇によって、政化は確実に広まったのである。