伽藍山は備中矢掛のランドマークである。山容はこんもりして美しく、山頂にクスノキの大木があって、遠くからでも視認できる。ということは、頂上からの眺めも好いはずだ。さっそく登ってみよう。
岡山県小田郡矢掛町江良と里山田の境に「伽藍山城跡」がある。写真は西方面を向いている。こんもりした山容だけに、けっこう傾斜がきつい。
山頂には四等三角点「伽藍山」がある。標高は292.16m。南側の鞍部に面した曲輪には、周囲に土塁が築かれている。
鞍部に下りて南の峰に登ってみよう。曲輪はそうでもないが、斜面に築かれた畝状竪堀に見どころがある。
山陽道を押さえるこの優れた城には、どのような武将が拠っていたのだろうか。『古戦場備中府志』巻之二「小田郡七郷」に、次のように記されている。
伽藍山城 江良村。
当城開基、宍戸安芸守の舎弟宍戸備前。其後に渡部佐右衛門尉在陣。渡部氏は毛利の家来にて、鬼身城主上田孫二郎旗下に属し、実親切腹已後、宍戸安芸守旗下と成。一名鷺の尾山ともいふ。(極楽寺の上東南の山也。鷺の尾は北の方の山共云。)其昔此城地は寺地にて、山の巓に極楽寺といふ寺有し。(今の里山田の東極楽寺、当村の西極楽寺は、再建立にて、頃は後鳥羽院の御宇にて有しとなん。)
宍戸安芸守は宍戸隆家、宍戸備前は宍戸元続(もとつぐ、隆家の孫)、渡部佐右衛門尉は左衛門大夫を名乗った渡辺長(はじめ)に思えるが、史実とは異なる。備中兵乱で天正三年(1575)に鬼身城主上田実親が切腹すると、宍戸隆家が鬼身城を預かった。同じ頃、猿掛城は穂井田元清(毛利元就の子)に預けられた。
伽藍山城は猿掛城に近いので、三村氏全盛期には上田実親配下の武将、備中兵乱後は穂井田元清配下の武将が在城したに違いない。眺望に優れた城なのに、これ以上は分からない。
ただ、伽藍山の名のとおり頂部に極楽寺という寺があったことは確かだ。その系譜を継ぐ寺は西明院(宇内)、四王寺(東川面)、西方院(江良)、大光院(江良)、極楽寺(里山田)だそうだ。そのうち、登城口にある西方院には仁王門がある。中を拝観すると…。
矢掛町江良の西方院に「木造金剛力士像」二躯がある。
うかうかしていると怒られそうだ。どのような由来があるのか、説明板を読んでみよう。
木造金剛力士像 二躯
町指定重要文化財(彫刻)
指定年月日 平成十四年六月十九日
所在地 矢掛町江良一七〇五
所有者 宗教法人 西方院
この西方院の仁王門の金剛力士像・二躯は室町時代の典型的な寄木造の極彩色の仁王像である。右側が口を開いた阿形像で、高さ一五九センチ、左側が口を閉じた吽形像で、高さ一五三センチ である。
なお、西方院は室町時代に、この伽藍山の頂上で栄えた極楽寺一山十二坊のうち、江戸時代の初めに、西麓の江良寺谷に下りた西極楽寺七坊の一つが、寛文十一(一六七一)年に西方院と公称するようになった寺院である。
矢掛町教育委員会
室町時代の作だから、伽藍山城のことも知っているに違いない。お城のお殿さまがお寺にお参りになったと思うのですが、何というお方なのかご存知ありませんか。