戦国のもののふは、鰹節を「勝男武士」と書いて験を担いだという。葦をヨシと読んだり、するめをアタリメと呼ぶのと同じ類だろうか。そう思って調べてみると、お刺身をお造り、河豚をフク、梨を有りの実と呼ぶのも同じだそうだ。
本日訪れるのは「勝尾」、吉備高原南端の高地である。地名の由来を『角川日本地名大辞典』33岡山県「勝尾」の項で調べてみると、「地名は、戦勝を祝うことを意味するものと思われる。」とある。験担ぎの地名なのだろう。
岡山市北区山上(やまのうえ)と同区御津勝尾(みつかつお)の境に「勝尾山城」がある。
備中と備前の境でもある。備前側からのアクセスがよいので、堅固な防御が施されている。天正九年(1581)の忍山合戦は毛利と宇喜多の国境をめぐる争いであった。
東側にある堀切である。
堀切に連なる横堀と横堀から派生する竪堀である。戦国末期の精巧な縄張で、複雑な起伏により敵の移動を制御している。文献では『東備郡村志』第七巻津高郡「宇甘郷」勝尾邑に、次のような記述がある。
▲船山城址
民家の南四五町計にあり。山頂一反計の地なり。昔此地に榎の大木十二本ありしゆゑ十二本木と云ふ。松田部将伊賀左衛門が一子与次郎と云もの、此城に居たるに、天正七年棄て去る。其後直家の部将、岡但馬此城に居る。但馬は幼名清三郎と云ひ、龍の口城主穝所元規を撃しもの也。後浮田但馬と云ふ。和気絹に但馬此城に戦死と云もの不審なり。(按に、伊賀左衛門虎倉は籠城のとき天正七年これを築と云ふ。)
伊賀左衛門は、もと松田氏の武将で宇喜多氏の重臣の伊賀久隆。天正九年(1581)に謎の死を遂げる。宇喜多直家によって毒を盛られたとも言われる。これに反発したのか、久隆の子与三郎家久は毛利家に寝返る。「与次郎と云もの、此城に居たるに、天正七年棄て去る」は、この史実を指しているものと思われる。
その後、宇喜多直家子飼いの家臣岡剛介がこの城に入ったという。剛介は幼名を清三郎といい、直家の小姓だった頃、龍ノ口山城の穝所元常暗殺に成功したと伝えられている。勝尾山城は西側の忍山城と一体的な関係があったから、天正九年の忍山合戦で忍山城とともに毛利氏に奪われたのであろう。その際、岡剛介が戦死したとしても不思議ではない。
17世紀半ば成立の『虎倉物語』には、忍山合戦が次のように描かれている。
それより伊賀与三郎殿と直家様と不通ニ被成候、其間に毛利殿御様子被仰候而直家様と手切ニ候、備中之内高田村と虎倉の境忍ひと申城ニ、岡山より岡野合介殿を御置被成候、是へ毛利殿御出にて、虎倉の内宿の山に御陣御すへ忍ひを御攻被成候、其時伊賀与三郎殿ハ勝尾山の上に岡山の押へニ御座候、伊賀殿より金川へ夜打一両度打せられ、首をハ毛利殿へ被遣候、六十日程御攻候て合助殿に腹切らせ、毛利殿も御引取被成候、伊賀与三郎殿もそのまゝ下へ御のき被成候(寛文元年ノ丑ノ年迄七十九年ニ成申候)
伊賀久隆の死後、その子家久と宇喜多直家は仲違いし、ちょうど毛利氏から誘われたので直家とは絶縁してしまった。備中高田と備前虎倉の境にある忍山城に宇喜多氏が岡剛介を置いたため、毛利がやって来て本陣山に陣を構え、忍山城を攻撃した。この時、伊賀家久は宇喜多氏を牽制するため勝尾山城に拠った。家久は金川城へ二度ほど夜討ちをかけ、首を毛利氏に差し出した。六十日ほどの攻撃で岡剛介を切腹させ、毛利氏は引きあげて行った。伊賀家久も毛利氏とともに西へと下っていった。(寛文元年すなわち1661年まで79年になる。)
1661年の79年前は1582年。これは天正十年に相当するから、同九年の忍山合戦に符合すると考えてよいだろう。伊賀家久は勝尾山城を捨て去ったのではなく、そのまま寝返って忍山城の岡剛介を攻撃したのかもしれない。
吉備新線(県道72号岡山賀陽線)で吉備高原に向かうと、勝尾山城の前を通過して忍山城の真下をトンネルで通過する。国境の激しい勢力争いが行われたことなど、いくら想像しても思い描けないくらいだ。勝尾峠を掌握した毛利勢は金川城を夜襲し、直家亡き後の宇喜多勢を追い込んでいく。この窮地を救うために東からやって来たのが、我らが英雄、羽柴秀吉であった。