北朝鮮の指導者金正恩第一書記が叔父の張成沢(チャンソンテク)国防委員会副委員長を粛清したのは2013年のこと。そのことで権力基盤が強化されるのか、それとも政権弱体化に向かうのか、当時は先がまったく読めない状況にあった。
2017年には異母兄の金正男氏を暗殺するなど、本当に21世紀の出来事かと思えるような権力闘争が続いた。あれから数年の歳月を経たが、北朝鮮に何らの変化もなく、政権は安定しているように見える。
同じようなことは、かつての我が国でも起きていた。時代は戦国、尼子氏の粛清劇である。
安来市広瀬町富田に「新宮党館跡」があり、島根県の史跡に指定されている。
北条早雲と並ぶ戦国大名の先駆け、尼子経久には三人の男子があった。嫡男の政久は永正年間に近隣の抵抗勢力桜井氏との戦で落命し、三男の興久は天文の初めに抵抗勢力となり自害に追い込まれた。
次男の国久は、政久の子で天文六年家督相続した若き晴久をよく支え、同十年に経久が亡くなってからも尼子氏の勢力拡大に大いに貢献した。国久の一族は月山富田城の北にある新宮谷に居館を置き、新宮党と呼ばれた。説明板を読んでみよう。
島根県指定史跡 新宮党館跡
新宮党は尼子経久の次男である国久の一族衆である。その名称は一族が新宮谷周辺に居住したことに由来する。
新宮党は尼子氏における軍事の中核を担った集団であったが、天文二十三年(1554)十一月、主君である尼子晴久によって滅ぼされた。
昭和五十四年に行なわれた発掘調査では、礎石建物跡や溝跡などが見つかっており、青磁や染付など中国産の陶磁器類の他、将棋の駒など、戦国時代の武士の暮らしぶりが伺える遺物が出土している。
また、敷地内には、国久とその子である誠久(さねひさ)、敬久(たかひさ)の墓と伝わる石塔群があり、肥前有田の久富二六氏によって、昭和十二年に修復されている。また、新宮党一族を祀った太夫(たゆう)神社がある。
平成二十一年十月 安来市教育委員会
張成沢氏が粛清された理由は、権力闘争だとか後継者問題だとか戦国時代さながらに語られ、真偽不明の情報が飛び交う。では新宮党討滅の理由は何か。尼子氏内部の内ゲバに見えて、実は外部勢力の陰謀だったという。黒幕はあの毛利元就。さもありなんと思わせる御仁である。
新宮党がいる限り出雲攻略はできないと考えた元就は、「内々に互に得御意候一儀弥無御別心彼仁を於被打果は御所領の儀如御望雲伯を進置可申」つまり、「密約のとおり晴久を討ち果たせば出雲伯耆を進ぜよう」という文が晴久に見つかるよう謀略を仕掛けた。
不審に思う晴久に、元就がさらに追い打ちをかける。城中の下々が入れない場所に落としておいた文には、次のように綴られていた。
我等事は毛利家へ味方仕候間此以後はたとひ命なからへ候とても懸御目候事は有ましく候扨々御名残おしく存候儀は筆にも尽かたき
文に名も日付もなかったが、国久が書いた決別の文と信じた晴久は、新宮党の面々を討滅してしまったのである。これは毛利氏側の軍記『吉田物語』に記された内容だから、知略にたけた元就に対して晴久の単細胞ぶりを際立たせているが、本当にそうだったのだろうか。
金正恩氏がそうであったように、おそらくは確固たる権力基盤の構築に障害となると考え、張成沢氏なり新宮党を粛清したのだろう。事実、その後の晴久の領国経営は安定し、対外的にも積極的な進出を続けていた。
滅んだ新宮党には一度だけ復活の機会があった。尼子再興戦である。主役は山中鹿介だが、鹿介が仕えた尼子勝久は、国久とともに殺された誠久の子であった。新宮谷が襲われた時、幼い勝久は乳母の懐に抱かれて落ち延びたと『吉田物語』は伝える。その勝久も再興かなわず、新宮党一族は滅び去ることとなる。
戦国時代には将来に禍根を残さぬようにと幼き者まで殺すことがあった。豊臣秀次の子仙千代丸や秀頼の子国松が処刑されたのも、復讐を恐れたからだ。張成沢氏の一族も大半が処刑されたというが、どこまで本当なのだろうか。戦国の価値観が消え去ることはないのかもしれない。
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