尼子山トンネルの下り線が9月5日の火災事故により通行止めとなっているが、12月下旬には復旧するそうだ。トンネルの南に尼子山があり、頂上に城跡がある。その名から想像するとおり、山陰の雄尼子氏が播磨に進出した最盛期の名残りである。尼子氏は出雲が本拠地だから、その勢力の大きさが偲ばれよう。
中国地方の太守の地位は後に毛利氏にとって代わられ、今は城跡に名を留めるばかりである。図らずも事故のせいで有名になってしまったが、尼子氏の名を残す城は他にもあるようだ。
美作市北山に「尼ヶ城(あまがじょう)跡」がある。
土塁で区切られた主郭は、居館跡と呼ぶほうが似つかわしい。その外側は見事な横堀で防御されている。いったい誰が城主だったのか。『東作誌』二巻「勝南郡豊国庄北山村東分」古城跡の項で次のように記されている。
尼城
低き岡山也或云尼子の城と云孤山にして今に乾堭の跡あり東は川の上に覆ふ今百姓持の林になる
乾堭とは横堀のことだ。播磨にまで進出する尼子氏が、途中の美作に拠点を築いたとしても不思議ではない。播磨進出は天文七年(1538)のことだから、尼ヶ城も同年代なのだろう。後に八か国守護に補任される尼子晴久の時代であった。
北山の地には中国自動車道や県道51号が通過し、今も昔も東西、南北交通の要衝であった。尼子氏衰退後はどうなったのだろうか。山城にしては峻険ではなくアクセスが容易だから、宇喜多氏は利用価値がないと考えたのかもしれない。
歴史に名を残す戦国大名はたくさんいるが、城跡に名が残る大名は少ない。そんな時代もあったねと、尼子氏の栄光に思いを致す縁が尼ヶ城にある。
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