奈良貴族の邸宅跡として知られるのは、長屋王邸や藤原不比等邸、藤原仲麻呂邸などであるが、昨年、舎人親王邸では?という4町宅地跡が見つかり話題となった。中でも仲麻呂邸は8町という広さだというから、その権勢が偲ばれる。
その藤原仲麻呂と相容れることなく、仲麻呂追討軍の指揮を執ったのが、吉備真備であった。真備もまた平城京に屋敷があったはずだが、分からない。しかし故郷、吉備の地には館址が2か所も残っている。
倉敷市真備町箭田に「吉備公館址」と刻まれた石碑が建つ。文化財指定はない。
碑の揮毫は重野安繹(やすつぐ)。近代実証史学の泰斗である。地元の顕彰団体「吉備公保廟会」の求めに応じて現地調査を行い、「吉備真備公産湯の井戸」のあるこの地を居館跡とした。明治三十三年のことである。
岡山県小田郡矢掛町東三成の吉備真備公園に町重文「吉備公ゆかりの地」があり、「吉備公館址」と刻まれた石碑が建つ。大正四年の建立という。
「ゆかりの地」という文化財名にユルさを感じる。どんな事情があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
吉備公ゆかりの地
矢掛町重要文化財(史跡)
所在地 矢掛町東三成
指定年月日 昭和四十八年四月十一日指定
管理者 吉備保存会
この吉備公ゆかりの地には屋敷跡とみられる土塁に囲まれた「だんのうち」と呼ばれる平地があり、このあたりから奈良時代の瓦片が出土している。(平瓦:平城宮六六六三型式、軒瓦:平城宮六六二五型式など)そのためか、この辺りの字は瓦谷という。
地元では吉備公館址と称され、下道氏の館址と伝えられているが、ここに下道氏墓所を祀る寺院があったとする瓦谷廃寺跡説もある。現在、吉備大臣官として祭祀されている。また、この宮の西に阿藤大簡(現浅口市鴨方町出身)の「吉備公館址詩」を刻む石碑がある。毎年五月には吉備保光会による吉備公祭が行われている。
矢掛町教育委員会
吉備真備の居館であったと断定することなく、「とみられる」「と称され」「と伝えられ」と慎重に言葉を選び、廃寺跡の可能性にも言及している。「いったい吉備公とどんな関係があるのか?」「ゆかりがあります。」筆者の誠実さを感じる。
管理者が吉備保存会となっているが、吉備保光会だろう。この会の歴史は古く、吉備真備を顕彰するため地元有志により明治33年に結成された。保光会の依頼により実証的な調査をしたのは、新進気鋭の歴史学者、原秀四郎である。原は病のために大正の初めに亡くなるが、その研究成果は『吉備公遺蹟誌』としてまとめられた。この文献では館址について、次のように記されている。
堂ヶ丸の麓に反別三町歩余の地あり『だんのうち』と称ふ、雑木茂生し一見林野の如きも地区整然として残礎あり、耕地より高きこと数尺井数ヶ所あり甚だ深からずと雖ども水清く土人称して公の産湯水を汲みし所と云ふ、又千余年前の製作に係る布目の瓦片散在して公の館址なることを証す、
「公の産湯水を汲みし所」は今も「吉備大臣産湯の井戸」として残っている。そして、古瓦の散布状況から居館跡であるとした。しかも実証史学の権威重野安繹博士からもお墨付きを得ている。
文学博士重野安繹君曰(明治三十三年)
小田郡東三成は吉備氏代々の居住地にて其墳墓あり、又大臣の祖母夫人骨蔵器も出でたれば公の館址たること疑ひを容るべきにあらず。
それにしても重野博士は、どちらの味方なのか。博士は自らの調査をもとに著した『右大臣吉備公伝纂釈』で、館址について次のように言及している。
今其ノ地形ヲ察スルニ東實成ハ山谿ノ間ニ在リ、八田ハ土壌平坦ナリ、公朝貴二列スルニ至リ、居館ヲ八田二徙サレ因リテ墳墓此二設ケタルカ、洗兒(サイジ)泉ノ如キハ、何方ニテモ英賢生誕ノ地二ハ、口碑二産湯ノ水ト傳フルモノアルハ常例ナリトス、
東三成は山に囲まれ、箭田は平坦地である。吉備真備が出世して居館を箭田に移したのではないか。だから墳墓もこの地に設けたのであろう。子洒(しさい)川という産湯の水は、偉人生誕の地によくある伝説に過ぎない。
そのように主張している。産湯の水伝説があるから居館跡の可能性が高い、と言いたいのかもしれない。つまり博士はどっちも正解派なのであった。
ただ、居館であるならば、下道氏関連であることに疑いはないが、吉備真備が暮らしたかは不明と言わざるを得ない。奈良の都に生まれ奈良の都で亡くなった可能性は高い。唐への派遣や大宰府への赴任により瀬戸内海は通過したであろうが、はたして下道の地を踏んだかどうか。
『本朝文粋』という平安中期の漢詩文集に、入試でもよく出る「三善清行意見封事十二箇条」が収められている。律令体制の衰退を指摘した有名な史料だ。備中国下道郡邇磨(にま)郷は、かつて斉明女帝が兵士を二万人徴発したという場所だが、吉備真備の頃には千九百余人、藤原保則の頃には七十余人、私の時には九人、後任の藤原公利に聞くと一人もいないという。人口激減の例を挙げて、国家財政の危機を訴えているのだ。史料で吉備真備は次のように説明されている。
而天平神護年中。右大臣吉備朝臣。以大臣。兼本郡大領。
右大臣の吉備真備は、下道郡大領を兼ねていたのだ。副総理が出身地の市長を兼任していたようなものだ。右大臣致仕後も下道郡大領は続けていたというが、本当だろうか。大領を続け故郷に戻り、静かに余生を暮らした。そして無聊の慰めに、巨岩の上で琴を弾いたという。琴弾岩の伝説である。
自分の住んでいる土地に偉人の足跡があったなら、どんなに誇らしいことだろう。そんな思いから、ついつい地元に引き寄せた物語を創造してしまう。吉備公館址や産湯の井戸が2つあるが、どちらが正しいの問題ではなさそうだ。史実としては吉備真備自身が暮らしていないことから、どちらも不正解で、伝説としては地元愛の発露ということで、どちらも正解ということができるだろう。
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