イエスが誕生した時に輝いたというベツレヘムの星は、ヨハネス・ケプラーによれば紀元前7年に起きた木星と土星の三連会合だったという。いや彗星ではないか?超新星爆発では?など、さまざまな説があって決定打はない。
吉備真備が生まれたのは持統天皇九年、西暦では695年。『日本書紀』には天文現象がいくつも記録されているが、当該の年には何もなく、前後の年に日蝕があるだけだ。近いのは持統六年に起きた火星と木星の接近であり、彗星なら天武十三年(684)のハレー彗星、同じ年には流星雨も記録されている。
岡山県小田郡矢掛町東三成の吉備真備公園に「吉備大臣産湯の井戸」がある。
お墓は誰にでもあるが、産湯の井戸があるのは偉人の証拠だ。吉備真備は天平神護二年(766)に右大臣となった。学者としてここまで立身出世したのは、後の菅原道真くらいしかいない。同じ年に道鏡が法王となっているから、権謀術数ひしめく政界を生き抜く処世術も備えていたのだろう。説明板を読んでみよう。
吉備大臣産湯の井戸
吉備大臣ご生誕の前夜、東の空から明るい光りの尾をひいて一つの星が流れ御館の西の井戸に落ちました。そして次の夜輝くばかりの玉のような男子が誕生し御館は歓びにわき、この井戸を「星の井」と呼び、この水で産湯を使われましたので、それからこの井戸が「吉備大臣産湯の井戸」と言い伝えられています。
東から星が流れて井戸に落ちたという。隕石の落下か。『日本書紀』に記載がないが、吉備の出来事は畿内では分からなかったのかもしれない。
倉敷市真備町箭田に「吉備真備公産湯の井戸」がある。お墓が複数ある偉人は多いから、産湯の井戸も二つくらいあっていいだろう。
真備公が唐の都長安に留学したことにちなんだ覆屋である。ザビエル産湯の井戸には日本風の覆屋があるのだろうか。ともかく、この中国風の井戸にも星が落ちたようだ。説明板には次のように記されている。
吉備真備公産湯の井戸
この地は、昔天原(てんばら)といい、吉備公の御館があった所で、真備が生まれる前夜この井戸へ星が落ちたので、星の井と言われるようになった。
この井戸の水が公の産湯に使われ子洒川(しさいがわ)(またの名を子洗川)と名づけられた。
公は生まれつきそう明であったので神童と呼ばれ、特に学問を好み一を聞いて十を知るという才人であったと伝えられている。
公の遺徳を偲んで、産湯の井戸を整備したのを記念しこの碑を建立したものである。
平成二年三月建立 真備町
このことについて、狂歌で有名な大田蜀山人が旅行記『小春紀行』に書き留めている。蜀山人は諸国漫遊をしていたわけでなく、長崎奉行所での勤務を終えての帰り道を記録したのだ。文化二年(1805)十月二十六日のことである。
又此処(引用者註:吉備寺のこと)より三町ばかり東土師谷(はじや)といふ所に天原(てんばら)といふ所あり、これ御館の跡なり、子洒(しさい)川といふも同じ所にありて、一名星の井といふ、吉備公生ましませし前夜、一の星井の中に落しゆへに、是を産湯の水とせしなど略縁起には見へたり、
と、説明板とほぼ同じ内容が書かれている。八田村(今の箭田)に入る前には、「井土寺」「妹村」「猿かけ山」「琴ひき石」と今も特定できる場所が記されているが、吉備真備公園の産湯の井戸は記されていない。
矢掛町の吉備真備公園は日本の歴史公園100選に選定されるなど現代の評価は高いが、江戸時代には真備町域のゆかりの地のほうが有名だったのだろう。どちらが史実を伝えているのか、分からない。
真備の父下道圀勝(しもつみちのくにかつ)は右衛士少尉にまでなった官人である。そして、母の楊貴(やぎ)氏は大和の人である。そうすると真備は、朝廷のある大和で生まれ育ったと考えるのが自然だろう。そうは言っても我田引水。偉人とのゆかりは地域の価値を高める。そのために創造された史跡が産湯の井戸だったのかもしれない。
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