塙保己一(はなわほきいち)は江戸中後期の大学者で、『群書類従』の編纂者として著名である。彼には視覚障害があったが、文字は手のひらに指で書いてもらって覚えたという。現在の埼玉県本庄市児玉町保木野の出身である。
埼玉県が設置する盲学校は塙保己一学園という。報道によると、PTAが点字ブロック啓発キャンペーンのために、学園のマスコット「白杖(はくじょう)の妖精つえぽん」を考案したそうだ。視覚障碍者の生活を支える白杖に対する理解が深まればよい。ガンバレ、つえぽん!
明石市人丸町の柿本神社拝殿前に「盲杖桜(もうじょうざくら)」がある。お察しのとおり、杖立て伝説の一つである。
いったいどのような伝説だろうか。柿本神社の祭神は柿本人麻呂である。人麻呂とは何の関係があるのだろうか。藤沢衛彦編『日本伝説叢書.明石の巻』(日本伝説叢書刊行会)を読んでみよう。
柿本神社の社前に、盲杖桜と呼ばれる桜の樹がある。往昔、筑紫より立ち越えて、人麿の塚に参詣した一人の盲人述懐して、
ほのぼのと誠あかしの神ならば 我にも見せよ人丸の塚
と、一首の和歌を詠じた。と、不思議や、盲人の眼は、即時に明いて、ありありと人麿の塚が写った。此霊験によって、もう、杖を持つ必要さへ無くなった其人は、所持の杖を其辺に挿し置いたところ、後には、長じて一本の桜の樹となり、立派な花実を備へるやうになった。盲人の杖であったものであるといふので、盲杖桜と呼ばれた。尤も古くは、旧城内にあったのであったが、其後、人麿の塚が今の地に移った時、此桜も此処に移されたのであるといふことである。
盲人の詠んだ歌のポイントは「ほのぼのと」である。この発句を聞くと、昔の人はすぐにこの歌を思い出した。
ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島がくれゆく舟をしぞ思ふ
この歌が「詞林の絶唱」として人口に膾炙していたことは前回に紹介した。つまり「明石」の歌である。「あかし」という音は「目が見えるようになる」という意味と重なる。だから盲人は言ったのだ。「ほのぼのと」という上手い歌を詠んだ人麻呂さんが本当に明石の神様で目も明かしてくれるのなら、私にも人麻呂さんの塚を見せておくれ。
このように神仏を挑発して願いを叶えるやり方は、小野小町の伝説にもある。「南無薬師衆病悉除の願ひ立て身より仏の名こそ惜しけれ」私の顔のできものを治せないなら、仏の名がすたると思うけど、それでもいいのかしら。
神仏とて、いくら言われてもできぬものはできぬ。障害理解の点からいえば、病気のように治療によって、或いは養生によって治癒するものではない。ましてや神仏に祈って奇跡が起こるとは限らない。
今でこそユニバーサルデザインなどと障害の差異を無化する考えがあるが、かつては思いもよらぬことだったろう。日本の障害者観を考えるに相応しい史跡である。