到底、三人の叔父に横領された遺産の大には、及びもしないが、それでも、将門はひとまず、家運を挽回した。
すんでの事に、建ち腐れともなる、父祖以来の、豊田の館を、もりかえした。叔父共の手からは、依然、一枚の田も返されてはいないが、奪られた家産田領の何十分の一かは、自分の努力と汗から取りもどした。
吉川英治『平の将門』の一節である。叔父らに土地を横領され、敵愾心を抱く将門。この後の私闘が引金となって、いよいよ承平天慶の乱が始まる。文中に将門が本拠としていた「豊田の館」が登場する。今日はその訪問記である。
常総市向石下(むこういしげ)の将門公苑は「平将門公本據豊田舘跡」である。
大河ドラマ『風と雲と虹と』を見て以来、将門公ゆかりの地を訪れることは願望の一つだった。抜けるように晴れた冬の日に霜柱を踏んだ感触とともに、将門公と同じ土の上に立ち得た喜びを記憶に留めておきたいものだ。
最初の写真の右端に石碑が写っている。正面から見るとその巨大さに驚かされる。ここに記されているのは、単なる史跡の解説ではない。平将門公一代記である。
豊田館址と平将門公事蹟
この地、平安の世には未だ毛野川の流れ定まらず、河川沼沢に囲まれた要害の地であり、偉大なる歴史上の人物である悲運の武将平将門の本拠地であった。当時、庶民は律令制度の変革・地方政治の弛緩と社会生活の不安に苦しんでいた。
時に桓武天皇の第五皇子葛原親王の孫高望王は臣籍に降下し、平朝臣の姓を賜り、上総介に任ぜられ東国に下った。高望王、任終るも上総に止まり、その一族は北関東に勢力を扶植し、子は国香、良兼、次いで良将(鎮守府将軍下総守を兼ね、この地豊田館に住す)、良文、良正等数人であった。
平将門は良将の第二子、岐嶷俊邁にして卓量あり、父良将死に臨み、子等皆幼なるにより後事を兄弟に託す。将門、京師に上り、左大臣藤原忠平に仕え在ること十余年、下総国相馬御厨の下司に補せられ、延長九年(九三一)、豊田館に帰り、亡父の先業を再興すべく努めるも、伯叔等は良将の遺言を忘れその領地を押収して返さず、剰え将門を誘殺せんと計るに至る。
承平五年(九三五)二月、将門を亡き者にしようと計る全常陸大掾源護の子等に野本で要撃されるも、これを逆襲し討死させ、伯父国香は戦傷死する。これより国香の子貞盛とは仇敵の間柄となるも、貞盛は将門との争いを避ける。十月、叔父良正攻め来り、新治郡川曲に戦い、これを敗走させる。
承平六年七月、良正は良兼・貞盛とかたらい下野国にむかう、将門これを下野国府に囲み、骨肉の間柄を考慮して退路を開き敗走させる。
承平七年八月、良兼の襲撃を受け、子飼の渡し、堀越の渡しの戦に退き領内は焼き払われ、妻子は討ち取られる。九月、将門は戦力を回復し良兼を真壁服織に襲うも、空しく引き上げ営所を石井に移す。良兼は益々宿怨を深め、十二月、石井営所に夜討ちを掛けるも将門主従僅か十人、奮戦これを撃退する。
承平八年二月、貞盛上京を企て、将門追って信濃国分寺付近で貞盛を破る。貞盛かろうじて逃れ上京し、将門の非法を太政官に訴える。
天慶二年(九三九)二月、将門は武蔵国権守興世王・武蔵介源経基と足立郡司武芝との争いを調停せんとするも、手違いから経基によって太政官に謀叛と訴えられる。興世王その後武蔵新司百済貞連と和せず、常陸の住人藤原玄明は常陸介藤原維幾の支配に服さず共に将門の下に身を寄せる。将門これを庇護し、十一月、常陸国府を襲い維幾等を捕え鎌輪の宿に還る。
将門は興世王の勧めに従い坂東八ヵ国の掌管を議し、弟将平、内豎伊和員経の諫言をしりぞけ、十二月、下野・上野を席捲し上野国府において「新皇」と称し自主除目を行ない、ことの由を太政大殿に上申す。その後坂東諸国を巡検して下総に帰る。
天慶三年一月、調停は将門兄弟及び伴類を追捕すべく、藤原忠文を征東大将軍に任命する。将門は残敵を追って常陸に入り、貞盛の妻等を捕え、その後兵を解く。二月一日、将門の警備の弛むを知り、貞盛は藤原秀郷と二千九百余の兵をもって襲撃し来たる。将門は迎え討つべく兵を集めるいとまもなく、率いる四百余人利あらず。すでに命運尽きはてしか二月十四日、石井の北山の戦闘において壮烈な戦死を遂げる。年三十八歳。
惜しむべし。英雄の末路、時の体制に合わざるによりその追捕は残酷悲惨を極め、豊田郡の遺蹟は悉く壊滅され尽し、将門の一族声なく諸国の山野に影をひそめる。一女(滝夜叉姫)、髙木親時等に守られ奥州磐城恵日寺に隠れ、信仰の生涯を閉じる。親時等の後裔今に至るも姫の霊を擁護し続けているという。
将門の死後、坂東各地にさまざまな伝説が生まれ、民衆と共に墾田し守り闘った英雄に対し、時の支配体制とあくなき搾取に苦しんだ庶民のささやかな抵抗と慰めとして今に語り継がれる。建長五年(一二五三)北条時頼法要を営み建碑してより七百余年。昭和五十一年、日本放送協会により、その生涯が「風と雲と虹と」と題して放映され、郷土に生きた開拓者として我々の心によみがえってきた。
これほどまでに熱く将門公を語るのは地元ならではであろう。将門は怨霊がらみで話題となることが多いが、ここでは民衆とともに土地を開発した英雄である。
豊田舘は将門の父良将が住んでいた場所であり、将門は延喜三年(903)3月25日に、ここで生まれたという。旧石下町作成の観光パンフレットにも、そのように記されている。将門の出生地は各地に伝説が残るが、豊田舘で生まれたと考えるのが最も自然だ。
京に上った将門が望み叶わず帰郷したのが延長九年(931)、乱が始まるのが承平五年(935)である。伯父良兼と対立を深めた承平七年(937)に営所を石井(坂東市岩井)に移したという。その後、将門は関東を席捲して「新皇」と称し除目を行うも、天慶三年(940)に討たれることとなる。
ここ豊田舘は、一代の英雄平将門が生まれ育ち、乱にあっては前半期に本拠となった場所である。将門を顕彰するに最も相応しい場所といえるだろう。
だから、ここは将門公苑として整備されているのだ。巨大な石碑で将門公の生涯が語られているのだ。そして、将門公の肖像がレリーフとなっているのだ。
銅像は各地にあるが、レリーフは珍しい。日展参与の彫刻家宮地寅彦(1902~1995)の制作である。「風と雲と虹と」で将門公を演じた加藤剛がこのような姿だったのを記憶している。
宮地寅彦の作品で有名なのは、甲府駅前の「武田信玄公之像」である。この像の迫力は、私たちが抱く信玄のイメージを余すことなく表現している。
一方、将門の像のよさは英雄然としていないところだ。将門公も、多くの武将がそうであったように、現代人もそうであるように、流されつつ悩みつつ精一杯生きようとしたに違いない。そんな姿がよく表されている。
今年も8月15日に「石下将門まつり」が行われた。第34回を数える伝統行事で、「のろばか踊り」という誰でも踊りやすい盆踊りである。有名タレントが将門公に扮したりする派手なものではない。それがよいのだ。将門公を含め石下ゆかりの数多の霊を慰めることが、毎年8月15日に実施する意味なのである。
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