地域にはそれぞれ特色のある祭りが行われている。その地域を象徴する特産物や人物がテーマとされることが多い。常総市は水海道市と石下町が合併してできたが、石下地区は「石下将門まつり」が行われている。ここは将門出生の地である。このことは以前にレポートしている。
これに対して、水海道地区には「水海道千姫まつり」があり、昨年は4月13日(日)に第13回目となる祭りが実施された。「千姫ちゃま」というマスコットキャラクターも登場した。この千姫ちゃまは「ハッスル黄門」さま(県のキャラクター)と従兄弟だという。確かに千姫と徳川光圀は従兄弟の関係である。
千姫ちゃまはプロフィールで「『ただとき君』と早く会いたいです」とコメントしている。これは大坂落城後に夫となった本多忠刻のことである。忠刻は父とともに姫路の地を拝領したため、千姫も姫路城で暮らした。
姫路城には化粧櫓という千姫のための櫓がある。内部には貝合わせという昔の遊び様子を再現した人形が置かれているというが、リニューアル後の今もあるのだろうか。この人形は茨城県の弘経寺所蔵の「千姫姿絵」を元に再現されている。
常総市豊岡町の寿亀山天樹院弘経寺(じゅきざんてんじゅいんぐぎょうじ)に「千姫御廟(千姫の墓)」がある。市指定の史跡である。「千姫姿絵」も同じく市の文化財である。
この地に千姫の墓があるのは、弘経寺第十世照誉了学(しょうよりょうがく)上人に千姫が深く帰依し、当寺を菩提寺と定めたことによる。了学は戦乱で焼失した弘経寺を再興したばかりでなく、徳川家康・秀忠・家光から厚遇された高僧であった。
千姫は寛文六年(1666)2月6日に70歳で亡くなった。葬儀は23日から25日まで小石川傳通院において執り行われた。京都知恩院第37世寂照知鑑(じゃくしょうちかん)が導師を勤めた。
こうしたことから千姫の墓所は傳通院、知恩院、そしてここ弘経寺の三か所にある。高野山奥の院、清心寺(深谷市萱場)、縁切寺満徳寺遺跡(太田市徳川町)には供養塔がある。
弘経寺の御廟には遺髪が納められたと伝えられてきたが、平成9年の保存修理の際に遺骨が納められていることが分かったということだ。
御廟の前に嘉永元年(1848)に建てられた「天樹大姫祠堂之碑」がある。天樹大姫とは天樹院と称した千姫のことである。よく見ると命日を確認することができる。
六年二月六日 大姫薨葬霊柩於寺中移其居第為方丈
千姫の御霊を寺に葬り、住んでいた御殿を移して方丈とした。この御殿は江戸城内の「竹橋御殿」で、千姫はここで娘の勝姫(のち岡山藩主池田光政の妻)と穏やかに暮らした。御殿は死後に弘経寺に移され方丈となったが、明治39年の火災で失われてしまった。
碑文の末尾に「鳥山城主左兵衛佐藤忠成題額 高松儒員池桐孫撰 加藩河三夾書」とある。題額の忠成とは、烏山藩(那須烏山市城山)の大久保忠成(ただしげ)公である。大久保氏としては5代目の藩主で、致仕後に左兵衛佐(さひょうえのすけ)を名乗っていた。大久保氏の本姓は藤原氏なので「藤」の字が入っている。
撰文の池桐孫とは、高松藩に儒者として仕えた菊池五山(きくちござん)である。画の谷文晁・書の亀田鵬斎とともに芸苑の三絶と称された漢詩人である。ちなみに小説家の菊池寛は、五山の義兄菊池守拙の子孫にあたる。
書の河三夾は、加賀藩に仕えた書家市河米庵(いちかわべいあん)で、巻菱湖、貫名菘翁と並び称される幕末の三筆である。
千姫は伏見城に生まれ、大阪城に嫁ぎ、江戸城で暮らした。常総の地には来たことはないのだが、了学上人との縁で弘経寺で菩提が弔われ、観光大使「千姫さま」やキャラクター「千姫ちゃま」となって市民に親しまれている。
一時は「吉田御殿」だとか「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖で」と悪しざまに言われた千姫だが、姫の名誉と栄華は常総の地で確かに守り伝えられている。
きちさま、ご教示ありがとうございます。勉強になりました。機会を見つけて訪れたいと思います。
投稿情報: 玉山 | 2015/03/24 20:27
八王子市の最教寺にも千姫の墓があります。
投稿情報: きち | 2015/03/24 18:44