江戸時代の地方史を調べていると「松平」という大名によく出くわす。宗家が「徳川」を称し、分家は「松平」であった。さすがは天下の徳川氏、親族が多いな、と思っていたら、みながみな松平一族ではないそうだ。今日紹介する松平氏は、戸田氏である。はて、どういうことだろうか。
明石市人丸町の天文科学館前に「松平丹波守康直墓」がある。「寂照院殿節叟賢忠大禅定門」の法号が刻まれている。「康直」は「庸直」とも書く。
まったく予備知識がないので、明石市教育委員会の説明板に教えてもらおう。
一、二代目城主 松平康直は、寛永十年(一六三三)四月、信州松本から七万石で入部した。
一、翌年五月、上洛途上、伊勢の鈴鹿で若くして没した。
一、五輪塔は、もと人丸山へあがる石段の麓にあった。
なるほど、これでは印象が薄いはずだ。初代城主の小笠原忠真については明石開府の殿様として以前に書いた。忠真が寛永九年(1632)10月11日に九州小倉へ移封となって、明石城は幕府の管理下に置かれた。
翌寛永十年(1633)4月9日、信州松本から松平康直が7万石で明石に封ぜられた。ところが翌年5月12日に、将軍家光の上洛に伴う移動中に東海道鈴鹿関で急逝した。18歳であった。
よくあるパターンなら、ここで無嗣断絶により改易である。前年には松江24万石の堀尾忠晴が同じ事情で改易になっている。末期養子が認められなかったのである。ところが松平康直の場合は、甥の光重の家督相続が認められている。これは、どういうことだろうか。
康直の父、康長は戸田氏の嫡流である。戸田氏は三河渥美半島に勢力をもった国人領主で、戸田重貞の代に徳川家康に従った。重貞の後を継いだ康長が永禄十年(1567)、家康の異父妹松姫を妻とし松平姓も賜った。これが賜姓松平の最初だという。
家康の母、於大の方は松平広忠に嫁いでいたが、実家水野氏が織田氏についたため、今川氏に属していた夫から離縁された。その後、久松俊勝に再嫁し3男4女を儲けたが、その一人が松姫だったのである。
つまり、本日の主人公である松平康直が若くして没しても、戸田松平氏が無嗣断絶とならなかったのは、父康長の家康に対する忠勤と母松姫の家康との血縁のおかげであった。やはり血は水よりも濃いということか。英語ではBlood is thicker than water.というそうだ。
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