秋が深くなると天空の城が人気となる。雲海の中に浮かぶ竹田城跡がもっとも有名だが、備中松山城や越前大野城も天空の城として喧伝されている。朝日に映えるその絶景を見ようと思えば、朝早くから準備し、城が一望できる高所にいなくてはならない。
それもよいが、本日紹介する城跡は下から見上げる天空の城である。山の緑の上に重厚な石垣が見える。かつてはそこに三層の天守があったというのだから、その威容は見る者を圧倒したことだろう。
兵庫県佐用郡佐用町平福と口長谷(くちながたに)の境に国指定史跡の「利神城跡(りかんじょうあと)」がある。
現在は崩落の危険性があるため入山が規制されている。遠くからでも迫力は十分、いったい誰が築いたのだろうか。佐用町観光協会と平福郷土を考える会の連名による説明板には、次のように記されている。
利神城跡(雲突城)
赤松一族から最北端の防備の任をうけた別所敦範により貞和5年(1349)に築城。その後、別所一族が約二百年間この地を治めるが、天正6年(1578)秀吉の中国攻めにからみ山中鹿之助に攻められ落城。その後、姫路城主池田輝政の甥、由之により慶長5年(1600)から約5年の年月をかけて行なった大改修で現在の城となる。標高373メートルの利神山の山頂に三層の天守丸を配した連郭式山城は、東西300メートル、南北500メートルにも及ぶ総石垣造りの広大な山城で、別名を雲突城とも呼ばれた。これを見た輝政は、余りにも壮大であるため天守破却の命を下し由之は退去させられる。寛永8年(1631)最後の城主、輝興が赤穂へ転封。これにより平福は、城下町としての歴史を閉じ鳥取藩の本陣を置く宿場町として栄えることとなる。
今見ている城は池田由之が築いた。由之については「お茶屋グラウンドの由来」でふれたように、父の不幸さえなければ家督を継ぐ立場であったので、叔父輝政も気を遣っていたようだ。だが由之が築いた利神城が「余りにも壮大である」ことから、輝政は天守を破却のうえ退去を命じたという。天守破却は慶長十年(1605)、退去は同十二年(1607)だと『佐用郡誌』は伝える。
由之に代わって利神城に入ったのは輝政の弟である「池田河内守長政」だったと『佐用郡誌』に記されているが、長政は「備作国境を守った藩家老」で紹介したように、慶長十二年に亡くなっている。城主となったのは長政の子長明が正しい。
慶長十六年(1611)に輝政の妻良正院が領し、元和元年(1615)に良正院の子輝興が継いだ。そのように『佐用郡誌』は説明しているが、良正院が領したのは慶長十八年(1613)、輝政の死去に伴うと考えるのが自然ではないか。輝政の所領は子の利隆が相続したが、この時、宍粟、佐用、赤穂の三郡が良正院化粧料の名目で岡山藩主池田忠継の所領となっている。
慶長二十年(元和元年、1615)に良正院、忠継が相次いで亡くなると、化粧料は良正院の子三人に分与された。宍粟郡は輝澄に、赤穂郡は政綱に、佐用郡は輝興に与えられ、山崎藩、赤穂藩、平福藩が成立した。寛永八年(1631)に政綱が継嗣のないまま亡くなったので、平福藩の輝興が赤穂藩に移封され、平福藩領は山崎藩領に組み入れられた。
佐用郡佐用町平福に町指定文化財の「平福陣屋門」がある。
平福宿は因幡街道最大の宿場町として栄え、天下泰平の世にあっては、山上の城は無用の長物以外の何物でもなかった。旗本領となった平福の行政を担っていたのは、この陣屋である。説明板を読んでみよう。
現存規模 桁行7間 梁行2.5間 切妻屋根 本瓦葺
寛永一七年(一六四〇)、利神城廃城後の平福は、松平氏五〇〇〇石の旗本領として代官支配になります。天保六年(一八三五)に起こった出石藩の仙石騒動に連座して、翌年幕府領になりますが、文久三年(一八六三)、旧領のうち二五〇〇石が松平氏に復し、明治維新まで続きます。
この陣屋門は、代官陣屋の表門として、文久三年の旧領戻りに際して建てられたと考えられ、棟の端には元治元年(一八六四)製の鬼瓦が残されています。明治以後、改変も受けていますが、陣屋跡に現存する唯一の建築物です。
寛永八年(1631)に平福は山崎藩領となったが、その領主池田輝澄は御家騒動を起こし、寛永十七年(1640)に改易されてしまう。代わって山崎藩主となったのは、松井松平家の松平康映(やすてる)である。松井氏は早くから家康を支え、松平姓を許された譜代の武将である。
康映は移封に際して兄の子と弟二人に分知したが、平福五〇〇〇石をもらったのが兄の子康朗(やすあきら)である。池田輝政が兄の子に気を遣ったのと同じ事情だろう。その後は代々、康朗の子孫が継承することとなった。ところが本家に養子に入り老中とまでなった松平康任(やすとう)が、三大御家騒動に数えられる天保六年(1835)の仙石騒動に関与して失脚し、奥州棚倉へ移封となった。このあおりを受けて平福の領地も幕府に召し上げられ、分家当主康済は奥州中畑(今の福島県西白河郡矢吹町中畑)に移されることとなった。
松平康済の子康直は外国奉行として活躍し、その功績からか文久三年(1863)に平福の旧領の一部が戻された。翌元治元年(1864)に康直が本家を継ぐと、阿部氏出身の康功が分家当主となって明治維新を迎えた。
ここ平福も秋が深まると雲海に沈む。雲を突いて浮かぶという利神城の姿は、西はりま天文台公園から撮影できるそうだ。陽が高くなれば絶景の雲海は消えてゆく。池田輝政が脅威を感じるほどの威容を誇った天守も雲散霧消してしまい、ただ石垣だけが静かに構える。美しいのはよいけれど、雲海の出る朝はずいぶん冷えることだろう。