目黒のさんま祭りで呑み喰いしたことは、忘れがたい思い出だ。香ばしさに誘われて、すっかり酩酊。第9回の祭りのことである。昨年中止となったのが第25回だから、ずいぶん昔のことになる。祭りの由来となったエピソードは、アーカイブズ「さんまは目黒に限る」で紹介した。
世間知らずのバカ殿は誰なのか。三代将軍家光とも松平出羽守とも言われている。英明な家光公がそんな痴態をさらけ出すとは到底思えない。ならば松平出羽守はどうなのか。これは雲州松江藩主代々の名乗りで、家光の時代のエピソードとすれば初代藩主直政ということになる。
松江市殿町に「松平直政公像」がある。
弓を手にした若き直政が天を仰いでいる。「さんま喰いてぇ」とお腹を空かしているのではなく、戦を前に覚悟を固めているのだろう。説明板を読んでみよう。
松平直政公像
松江藩主は、堀尾三代、京極一代、松平十代である。松平家初代の直政公は、富国・安民・質素・節財等の大綱を示し、藩政の基礎を固めた。
慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣に際し、母月照院は、十四歳で初陣する直政に対し「君は徳川家康の孫で、父結城秀康は名将である。父に劣らぬ奮戦をせよ」と励まし、馬印(隊旗)を縫って与える。越前隊と加賀隊が先を争って真田丸に進むが、弓銃が激しく撤退する。その時、一将が進み出る。見れば直政である。従士の天方通総(あまかたみちふさ)は馬を止め矢表に立ち「大将が先がけるとは何事ぞ」と諌めるが直政は更に進む。通総は再び矢表に立ち塞がる。何度も矢表を争う主従を見た城将真田幸村は、直政の勇気と従士の忠義を賞し、弓銃を撃たせず、主従の武士道の誠を讃え、櫓より軍扇を投げ与える。
この美談徳目は、時代を越えて輝き、郷土の先人は感嘆し銅像建立へと進んだ。明治から大正にかけて小銅像が制作され、昭和二年に米原雲海作の直政公初陣像が松江城本丸に建立される。昭和十八年戦時により供出される。
その後、再建の気運が高まり昭和五十二年、松平直政公銅像再建委員会が設置され、平成二十年、同建設委員会が設置される。銅像制作は、二科会理事の倉澤實氏による。
平成二十一年十一月吉日 松江開府四百年祭・市制施行百二十周年事業
松平直政公銅像建設委員会・松江市
大坂冬の陣、太平洋戦争と二度も出陣した勇士の雄姿である。直政公は乱後の元和二年(1616)、「出羽守」の官位を与えられた。松江藩主となったのは寛永十五年(1638)である。松江藩は以後代々、越前松平家としての誇りを汚すことなく維新に至る。公と母君のエピソードについては、アーカイブズ「すでに呑牛の気象あり」でも紹介した。
真田幸村が激賞するほどの武者振りだったという直政公。とても「さんまは目黒に限る」などと頓珍漢なことを言いそうにない。それとも、向こう意気だけはめっぽう強かったが、食べ物には疎かったのだろうか。おそらくは、明治になって落語家の誰かが「松平出羽守」という殿様らしい名前を考え出し、それがたまたま直政公と一致したに過ぎないのだ。
それでも言おう。秋刀魚は家でも居酒屋でも、そりゃ美味い。都心の祭りで昼間から呑みながら口にする秋刀魚は、もっと美味い。やはり、さんまは目黒に限る!
いくら直政公だって、私と同じ経験をすれば、そう言うに決まっている。
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