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興福寺の五重塔が250円で売却されそうになったのは有名な話だ。廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、寺院建築なんぞ前時代の残滓かのように捉えられていた。城郭もまた同じ。石垣が美しい津山城も明治初年には、天守をはじめ櫓が林立していた。封建社会においては権威の象徴であったが、近代国家にとっては維持費ばかりがかかる無用の長物と化していた。
松江市殿町に国宝「松江城天守」がある。一帯は国指定史跡「松江城」である。
万物は流転するのとおり、人にも事物にも栄枯盛衰がある。栄えていた時期が過ぎ、オワコンと揶揄され、忘れ去られていく。しばらくするとレトロ感が新しいなどと見直されるようになる。フェノロサのような慧眼のある人に出会うなら、文化財という価値を与えられるだろう。
フェノロサは外国人だから気付いたのかもしれない。どっぷりと浸かっている当事者には価値が分かりにくい。ところが、松江の人々は違った。自らその価値を見出したのである。慧眼も熱意も、そして財力も持っていた。説明板を読んでみよう。
明治4年(1871)4月、松江城の廃城が決まり、明治8年(1875)に、利用できる釘や絵など金物が目的の入札が始まりました。木材は燃やし、石材は壊されるしかありませんでした。松江城の姿は失われる寸前でした。
この危機を救ったのが、元松江藩士高城権八(たかぎごんぱち)と出雲郡出東村(しゅっとうぐんしゅっとうむら)(現斐川町坂田)の豪農勝部本右衛門(かつべもとうえもん)家の人たちでした。
高城は銅山方役人、勝部家は当時、銅山経営をおこなっていましたので、本右衛門栄忠(しげただ)と、息子の景浜(かげはま)は、高城と公私にわたる親しい間柄でした。
そのとき、松江城を管理していたのは陸軍広島鎮台でした。入札で松江に来ていた責任者の斉藤大尉と会い、入札額と同金額を納めるから、せめて、天守閣だけでも残してほしいと懇願しました。
天守閣の入札額は180円だったと伝えています。
こうして、高城権八と勝部本右衛門の努力で松江城天守閣は残り、全国に現存する十二天守の一つとして、今も、戦国の威風をただよわせて松江の町を守っています。
同じように黒い色をした岡山城は改修のため5月いっぱいで閉館するという。令和の大改修と宣伝されているが、姫路城の平成の大改修ほどには盛り上がらない。やはりホンモノと偽物の違いだろうか。
ホンモノの迫力は文豪の筆によって増幅される。松江といえば小泉八雲。彼は我々には見えないものを見る力を持っていたようだ。『知られぬ日本の面影』「神々の国の首都」には、松江城が次のように描写されている。
封建時代の兜の如く、頂には大きな唐金の鯱が屋根の両端からその彎曲した体を空へ揚げてゐる。して、角を具へた破風や、鬼瓦を敷いた檐や、判じ物のやうな恰好をした、反を打った瓦屋根などが、各階毎に簇生してゐるので、華麗な怪物を集めて造った建物の龍そっくりだー加之、上方下方各側のあらゆる稜角に眼睛を点じた龍なのだ。
動かざること山のごとしの天守が、龍となってうごめき始めた。さすがの感性は、八雲ならではだ。見える人が見れば、見え方が違う。いま捨てているものにも、やがて価値を見出す人が現れるだろう。オワコンと鼻で笑っていられるのも、今のうちだけだと思い知るがいい。
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