パンデミック後の世界を誰もが思い描けないでいる。気温が上がれば収束するとの楽観視は見事に外れ、集団免疫を獲得すれば感染拡大しないとの学説は賛否両論ある。スウェーデン人は免疫獲得に失敗したとされるし、日本人は成功したとの主張もある。世界的な収束が見通せない中、延期された東京オリンピックは本当に開催できるのか、疑問の声さえ出始めている。
いっぽう白人警官による黒人殺害に端を発した人種差別抗議のうねりが全米を覆っている。いつまで経っても過去にならないこの問題は、奴隷貿易以来の歪んだ価値観に起因する。植民地主義の残滓は今もアメリカの其処此処にあるというポストコロニアルな問題なのである。
ポストコロナ社会は見通せず、ポストコロニアルな問題も解決できない。私たちの生きる歴史に、道しるべはないのだろうか。とりあえず、三百年以上前の本物の道しるべを訪ねることとした。
岡山県久米郡美咲町打穴中(うたのなか)に「石造道標」があり、町の文化財に指定されている。
道しるべは当然ながら分かれ道にある。この道標を前に岐路に立つこととなった私は、左へ進んで国道53号に出て岡山に向かおうとしていた。右に進めば旧打穴村の中心である。歴史の岐路とは違って、行き先が明示されているのがうれしい。説明板を読んでみよう。
打穴中高清水にあるこの道標は、各面に「東西南北」と、それぞれの方位が記されている。東にあたる面には、「是より左備前道」とあり、その反対側に、元禄二年(1689年)とある。
当時の津山街道の面影を残した、県下でも古く数少ないものである。
美咲町文化財保護委員会・美咲町教育委員会
元禄二年といえば、「ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて」と芭蕉が『奥の細道』の旅を始めた年である。ここ中国地方でも人々の移動がさかんになり、道しるべが必要となってきたのだろう。当時は森氏津山藩領だったから、津山から岡山へ向かう旅人の便宜を図って「ここから左が備前に向かう道ですよ」と示したわけだ。
岡山津山間を結ぶという国道53号にある役割は、往時は津山往来が担っていた。実際に進んだのとは逆に津山方面に向かってみよう。国道は打穴中交差点から北に皿川に沿って伸び、高低差をあまり感じることなく津山に至るが、津山往来では「高清水坂」という山越え道となる。
津山市福田地内の山越え道をしばらく歩くと道路脇に里程標がある。今の言葉ではキロポストに相当する。写真は手前が津山方面だ。
刻字に「距津山元標貮里」「明治五年八月検査」とある。距には「へだつ」という読みがあり、津山にある道路元標から二里の距離があることを示している。明治五年(1872)年当時、この地は岡山県ではなく北条県であった。このため「距岡山」ではなく、県庁所在地の津山からの距離が示されている。全国的にも早い時期から道路整備に着手していたようだ。
ここはお国を何百里、離れて遠き満州の…と歌いながら我が国は、泥沼の戦争に陥って多くの命を失うこととなった。「バスに乗り遅れるな」と飛び乗ったのは行き先も分からぬバスであり、そのバスの走行する道路にはいくつもの分岐があったが、いずれも道しるべなどなかった。今の私たちが必要としているのは、路傍にたたずむ一基の道しるべなのである。