「山中一揆」は死の決起と称されるほどに、その一大行動は、日本三大百姓一揆のひとつとして、後世に語り継がれるべき遺訓であります。
山中一揆義民顕彰会『山中一揆』の挨拶文で、湯原町長(岡山県真庭郡、現在は真庭市)は、このように謳った。三大百姓一揆の一つだというが、他の二つは記されていない。おそらくは盛岡藩の三閉伊(さんへい)一揆(弘化四、1847)、郡上藩の郡上(ぐじょう)一揆(宝暦四、1754)であろう。
三閉伊一揆は1万6千人が参加、郡上一揆は藩主改易の事態に至るなど、特筆すべき内容がある。享保11年(1726)の津山藩の山中(さんちゅう)一揆も51名の処刑者を出した大規模な一揆であった。
真庭市禾津(いなつ)の「義民の丘」という公園に「山中一揆義民の碑」が建てられている。昭和57年の建立で、揮毫は当時の岡山県知事長野四郎氏である。
義民碑の隣には慰霊碑があり、処刑された51名の名前、居村等を刻んでいる。このうち、磔に処せられた中心的指導者、徳右衛門は仲間村牧分の住人である。
美作国真島郡仲間村は現在の真庭市仲間である。牧分(まきぶん)は仲間村の上流域で、禾津の南に位置する。「山中(さんちゅう)」とはこの辺りから湯原湖周辺を指す地名であった。確かに山また山である。
牧分の徳右衛門は「牧の徳右衛門」という呼び方もある。下の写真の石碑に刻まれた享保十二年三月十二日は徳右衛門らの命日、陽暦に換算すると5月2日となる。
まずは一揆の概略をまとめておこう。津山藩は幕府の始めた享保の改革に倣い、年貢増徴策を講じていた。責任者は近年にわかに出世を遂げた久保新平である。おそらく敏腕であった彼は、享保11年に在中惣呑込(ざいちゅうそうのみこみ)という農村支配の全権を有する役職に就いた。
この年の秋の年貢収納はことのほか厳しかったが、おおむね順調に納入は進んでいた。そんな11月11日、藩主松平浅五郎が11歳で病死する。幕府は藩があわてて決めた末期養子を認めたが、10万石の石高を5万石とした。
問題は津山藩領を離れる5万石分がどこになるのかだ。津山からの位置関係から考えると、大庭郡及び真島郡の可能性が高い。じゃ、オレらの納めた年貢はどうなるんじゃ? 山中の人々は、年貢の行方に関心を抱いていた。
そんな折、郷蔵から年貢米を舟で運び出そうとする動きを農民が見つける。津山領分から外される前に、年貢だけは藩のものにしようってわけか。年貢の厳しい取立てに対する不満は、藩への不信感へと変容していく。山中に集結を呼びかける天狗状が回った。
12月5日から6日にかけて大旦芝(おおだんこうげ=現在の真庭市台金屋)で4千人の大衆団交が行われた。農民側は、年貢軽減や村役人の罷免など諸要求を貫徹し、当局の同意を引き出した。一方、藩内においても騒動の責任を取る形で久保新平が罷免された。
一揆はこれで収まらなかった。不穏な動きは藩内各地へと飛び火し、当局の対応は行き詰まりを見せてきた。特に山中の農民には、この地はおっつけ天領となりますゆえ津山のお殿様のごやっかいにはなりませぬ、そんな意識があった。
これでは津山藩の面目は丸つぶれだ。享保12年1月6日、ついに藩当局は武力鎮圧に踏み切る。農民を次々と逮捕し、処刑者の首を見せしめとして晒した。12日には牧の徳右衛門が土居村(現在の真庭市禾津)で逮捕され、一揆は沈静化する。
その後も残党狩りが続けられ、現地処刑も行われた。指導的立場にあった農民は津山に護送のうえ処刑された。3月12日、徳右衛門が磔となったのは先述のとおりである。場所は院庄(いんのしょう)を流れる吉井川の河原であった。近くに首なし地蔵が祀られているという。
真庭市仲間に「牧の徳右衛門御前(みさき)」と呼ばれる徳右衛門の墓がある。「清眼則勇信士」「俗称池田徳右衛門」と刻まれている。嘉永年間に郷土の村役人が遺徳を讃えて建立した。
徳右衛門御前と呼ばれることから分かるように、この墓には特別な信仰心が寄せられている。鎌などの刃物を奉納し、頭痛に効能があるということだ。
徳右衛門の最期の様子を『作陽乱聴記』という古記録は、次のように伝えているそうだ。山中一揆義民顕彰会『山中一揆』の記述を引用しよう。
いよいよ徳右衛門の前に、槍が構えられた。と「しばらくまて」と磔上から声がかかった。「何か」と尋ねると「気楽に受け答えの声を掛けてやろう。突く時には声を掛けてこい」と、然らばとて「右より参るぞ」と言えば「合点」と答えて穂先を受けた。ついで「左より参るぞ」と言えば、「覚えたり」と答え、両脇に槍を受けたうえ「さらば止(とど)めに参るぞ」と言えば気丈にもなお応答の声が聞き取れたのであった。
超人的な姿が描かれ、どこまでが史実なのか分からない。さらに『美国四民乱放記』という古記録では、島原の乱の天草四郎の孫に設定され、次のように記述されるのであった。
徳右衛門ヲ大姓ニ定メ、家名ヲ改、アマノ四郎ノ左衛門佐藤原時貞ト名乗
時貞語テ曰、誠ヤ川上不清時ハ、必其下濁ル。国不納時、民乱ルルトハ、古キ言葉ニ見タリ。見ヨ、見ヨ。七年ハ過間敷、郷士ドモハ己ト亡国有、諸ノ佞人ハ天ノ冥罰ヲ可請。我命ハ終トモ、一念ハ死替、生替、鬼トモ蛇トモ成テ、世々影向、恨ヲナサデ可置カト、血ノ泪ヲハラハラト、断責テ哀也。
『作陽乱聴記』や『美国四民乱放記』は地元で書かれた記録である。その発想や情景描写には恐れ入る。実際の徳右衛門もヒーローとなりうるだけの資質を具えていたのだろう。
真庭市蒜山西茅部に「田部義民の墓」がある。地蔵は22体あるという。
山中から旭川を遡った奥山中地方でも、多くの農民が年貢減免闘争に参加した。彼等は牧の徳右衛門とともに一網打尽に捕らえられ、1月13日午後4時頃、土居中河原で処刑された。処刑者のうち20人が西茅部村の者であった。
全51名の処刑者のうち、一つの村で20名もの犠牲者を出した村は他にない。リーダー徳右衛門を守るために激しく抵抗した結果の重刑だったのかもしれない。
今日紹介した地域は、岡山県内有数の観光地である湯原温泉から蒜山高原にかけての旭川上流域である。この地を舞台に、江戸時代半ば、生きるために闘った誇り高き人々がいたことは、もっと知られてよいことだと思う。小耳にはさんだところによれば、『新しき民』という山中一揆をモチーフにした映画が今秋にできるということだ。
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