「尊王攘夷」は幕末を特徴づける思想の一大潮流である。天皇を尊び外国人を排除する。尊王攘夷派は、勅許を得ぬままに外国との交渉を進める幕府に対する不信感を高めていく。
昨年150周年を迎えた天誅組の変(文久三年、1863年)は、尊王攘夷派の精華である。しかし、事を為し得なかった。蹶起直後に八月十八日の政変が起こり、幕府軍に討伐されてしまうのだ。
それでも、五條代官所を襲撃し「御政府」を樹立したことは、武力による最初の倒幕決行であり、明治維新の魁(さきがけ)と評価されている。そして、天誅組三総裁の一人、吉村寅太郎は明治24年に名誉回復として正四位を追贈されている。これは坂本龍馬と同等の処遇である。
観音寺市原町の東面山大通寺に「赤心報国之碑」がある。昭和35年5月の建立である。
「赤心」とはまごころである。「報国」とは国に尽くすことである。かつて、この寺を拠点に、まごころで国に尽くそうとした人々が活動した。赤心報国党である。全員で十数名の秘密結社である。いったい何をしようとしたのか。香川県図書館協会編『讃岐ものしり事典』を読んでみよう。
明治3年5月、豊田郡原村野田の片山菅之進が長州の浪人富永儀三郎と赤心報国党を結成、明治維新の諸制度の改革に反対し、君国の大義につくことを期して大通寺を本拠として一揆を起こそうとした。
片山菅之進が党首、富永儀三郎が首長で同志を募り、明治4年義兵を挙げようとした時、同志の一人の密告により菅之進の家で一網打尽に捕えられ、事は破れ同志たちは高松県獄に入牢した。
一揆は不発に終わり、今では注目されることはほとんどない。党首の片山菅之進の家には、文久三年(1863)10月に尊攘派公卿澤宣嘉が生野の変に敗れて落ち延びる際に立ち寄ったという。片山は君国の大義に燃える庄屋であった。
赤心報国党の首魁、富永儀三郎は、明治二年から三年にかけての長州の奇兵隊脱退騒動に関わり、明治三年(1870)4月に多度津にやってきた。奇兵隊脱退騒動とは、山口藩が奇兵隊など臨時に創設した諸隊を常備軍に編成しようとして発生した抵抗事件で、富永儀三郎の父富永有隣はその首謀者の一人ある。
5月15日の挙兵に失敗した後、片山菅之進らの手引きで大通寺に潜伏し、ここで赤心報国党を結成することとなる。大通寺の住職面山栄伝は副党首となる。明治4年春の誓詞血判の誓文には次のように記されている。
癸丑甲寅以来外夷来襲既に此の大患に至るを憤り、先死国家の難は一たび国体を正し、隅々皇道発明せんとするの所、悲哉風慮の浅情素志反覆、今や奸臣の為に一天の大君を夷狄の邪謀に奪われ黠計以て皇威を悩まし四民ノ安危旦夕に迫る。斯の時に当たり神州に永年の国恩を蒙る者、可堪袖手安逸乎。然も神州興廃存亡を定むるは此の一挙にあれば、実にその任雖難担赤心一到何事不成乎。
今や、腹黒い家臣のために外国の計略にだまされ、陛下の御心を悩ましたまうだけでなく、国民の存亡が危うくしている。これは、まさしく「尊王攘夷」の考えだ。
国を救うため機会を窺っていた赤心報国党は、10月10日(1日とも)、密告により一網打尽(片山は12日)に捕らえられ、首謀者は高松県獄へ送られる。首魁富永儀三郎は明治5年(1872)5月に斬罪に処せられた。党首片山菅之進は4年11月に脱獄し、5年3月11日に京都で追い詰められ自刃した。
明治維新の混乱期に生じた一つのエピソードのようだが、富永や片山の「尊王攘夷」と吉村虎太郎ら天誅組の「尊王攘夷」とどこが異なるというのか。異なるとすれば「奸臣」が誰かということだろう。天誅組の奸臣は幕府やそれに連なる役人だったが、赤心報国党のそれは新政府のメンバーである。
尊王攘夷のエネルギーを倒幕へと向かわせ、権力を奪取した後は「攘夷」を放棄し、これを主張する者を取り締まった。時代遅れといえばそれまでだが、遅れてやって来た者の意地を見せつけるような反政府事件であった。
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