自民党の石破茂幹事長が、安倍晋三首相から安全保障法制担当相への就任を求められても辞退する考えを示した。報道によると、来年9月の総裁選を見据えた駆け引きが行われているようだ。忠誠を誓って共倒れするのか、距離を置いて打って出るのか。首相の跡目争いはもう始まっているらしい。
戦国の跡目争い、家督相続をめぐる暗闘は現代の比ではなかったろう。今日は毛利元就が家督を相続した際の内訌のお話である。
安芸高田市甲田町下小原と上小原の境に「長見山城址」がある。安芸高田市指定の史跡である。
旧甲田町教育委員会が建立した石碑が道沿いに見えた。読んでみよう。
延文二年中村澄晴築城康暦元年孫元定高原庄に移る後毛利氏の臣渡辺氏入城大永四年城主次郎左衛門元就の意に逆い郡山に於て殺され其家族七人亦内長見土居に於て殺され男太郎左衛門遁れて比婆山内氏に走り後許されて皈城大いに軍功あり其子飛騨守慶長五年毛利氏防長移封の際従い之に移り尓後廃墟と化す
昭和四十六年四月吉日
渡辺綏夫氏夫妻の特志により建之
毛利元就に逆らって殺されたことはつかめるが、地域の歴史に詳しくなければ、一読しただけでは理解は困難だ。一つずつ調べてみよう。
1357年に中村澄晴が築城し、1379年に孫の元定が高原庄へ移った。澄晴と元定はよく分からないが、安芸の国人、中村氏の一族だろう。中村氏は甲斐武田氏の流れで南北朝期に安芸に移り安芸武田氏に仕え、のち毛利氏に帰属した。本拠は安芸高田市八千代町土師の田屋城である。中村元明は大永三年(1523)の毛利元就の家督相続申し入れ連署状で2番目に署名している。
高原庄もよく分からないが、次のような状況証拠がある。安芸高田市吉田町竹原は「和名抄」東急本で高宮郡竹原郷の訓が「タカハラ」となっている。江戸期の竹原・国司・常友3村に竹原庄の総称があった。このことから、明治22年から昭和4年まで高原村(たかはらむら)という自治体が置かれた。
確かなのは、毛利氏の臣として、ともに安芸に移ってきた安芸渡辺氏である。勝(すぐる)、通(かよう)、長(はじめ)など一字名の名乗りが特色である。これは嵯峨源氏源融、その子孫渡辺綱の子孫であることに由来する。本拠は本日紹介している長見山城である。
「大永四年城主次郎左衛門元就の意に逆い」というのは、1524年に渡辺勝(すぐる)が尼子経久とその臣亀井秀綱に内応して元就の家督相続に異を唱え、相合元綱(あいおうもとつな)の擁立を図ったことを指す。
相合元綱は元就の異母弟である。元就は正室福原広俊女の子であるが、元綱は側室難波元房女の子である。『陰徳太平記』では「九郎義経ニモ劣ラズ軽業(カルワザ)兵法ノ達者ニテ」と優れた人物としている。元就の有力な対抗馬であった。
しかし、クーデタの動きに対する元就の対応は迅速だった。船山城(安芸高田市吉田町相合)の元綱を謀略によって誅し、渡辺勝を郡山城に呼び寄せて殺害した。さらに長見山城に攻め寄せ、勝の父を含め一族を滅ぼした。『陰徳太平記』巻之五「相合就勝謀反付生害之事」は長見山城について次のように伝えている。
父ノ入道ハ、小原ト云フ所ニ居ケルヲ、軍士ヲ遣シ打チ果サル、小原ノ七人塚ト号シテ、渡辺党七人一所ニ築キコメタリケルトカヤ、
この七人塚は、城の300mほど北(甲田町下小原字内長見)にある民家に今も残り、「渡辺七人塚」として安芸高田市指定の史跡となっている。ここで写真があればよいのだが、あいにく塚には立ち寄っていない。
「男太郎左衛門遁れて比婆山内氏に走り後許されて皈城大いに軍功あり」は、勝の子通(かよう)が備後山内氏のもとへ逃れたことを指す。山内氏は藤原秀郷の流れで山内首藤氏ともいう。本拠は庄原市本郷町の甲山(こうやま)城で、のちに毛利氏に帰属した。
通も許されて元就の配下となって帰城し、通の子長(はじめ)は毛利十八将に数えられる重臣となった。勝のクーデタが成功していれば毛利氏の中国制覇はなかった。関ヶ原、幕末と重大な政局で日本を動かした毛利氏である。長見山城はその毛利氏が元就を当主として動き始めた際の爪痕の一つであった。
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