暮月夜心毛思努爾白露乃置此庭爾蟋蟀鳴毛
夕月夜(ゆふづくよ) 心もしぬに 白露(しらつゆ)の 置くこの庭に こほろぎ鳴くも
朝に露が輝いていたこの庭、夕暮れになって月が見える。コオロギの声が切ないよ。
これは『万葉集』巻八「秋雑歌」1552、湯原王(ゆはらのおおきみ)の作である。巧みな歌を詠むこの王は、天智天皇の孫で志貴皇子の子である。
万葉歌人が戦国カテゴリーの記事に何の関係があるのかと、いぶかしくお思いの方もおられよう。今日はこの王の子孫にまつわる史跡である。
安芸高田市甲田町上小原の池の内池のあたりは「池之内古戦場(尼子古戦場)」で、安芸高田市指定の史跡である。
ここから北へ坂を下り、江の川を渡ると吉田の町で、毛利元就の居城、郡山城がある。時は天正九年(1540)、山陰の雄尼子勢三万の大軍が郡山城に攻め寄せた。対する毛利勢は二千四百、領民を合わせて八千である。大内氏勢力圏の前線を守備する毛利元就が乗り越えねばならなかった試練、郡山合戦である。道端にある説明板を読んでみよう。
池の内古戦場
尼子は一五四〇(天文九)年六月備後路より郡山城を攻めようとし、甲田町深瀬まできて、江の川を渡ろうとしたが、宍戸氏に阻止されて進撃を断念。再び同年八月尼子詮久(晴久)は、三万の大兵で石州路より侵攻したが、毛利元就は援軍を大内氏に要請した。
その年九月二十六日に尼子軍の武将である湯原弥二郎宗綱が将兵千五百人を率いて坂・戸島(向原町)方面へ進出した。これに対し大内軍が応戦し、一方郡山城からも毛利軍が打って出て両方から尼子軍を攻撃した。
尼子軍の武将湯原弥二郎宗綱は、逃げ遅れて深田に馬を乗り入れ、進退の自由を失っているところを討ち取られた。現在も湯原弥二郎腹切岩という石が残っており記念碑が立っている。
甲田町教育委員会
石州路より侵攻した尼子軍は、9月4日に郡山城から北西の風越山に陣を築いたが、23日には青光井山に本陣を移した。下の写真は郡山城から南西方面の青山、光井山を見ている。左が青山、右が光井山、青光井山はその総称である。
尼子軍は翌天文十年(1541)正月13日まで110日間ここに対峙していた。結論から言うと、総大将の尼子久幸が討たれ尼子軍が撤退することで合戦は収束することとなる。
話を合戦初期の9月に戻そう。小勢の毛利軍は大内氏に救援を要請、同じ大内氏配下の竹原の小早川興景も郡山城救援に向かう。ところが、小早川勢は行く手を尼子勢に阻まれ、向原の坂村に屯営する。
尼子軍の勇将湯原弥二郎宗綱は小早川勢に攻めかかるが、毛利氏の救援に駆け付けた大内軍の先発隊杉元相(すぎもとすけ=おそらく吉田松陰を輩出した杉氏一族)の反撃を受けた。さらに毛利勢(粟屋元良、信常就程、岡光良)が城から打って出てきたので挟撃される形となり、進退窮まって切腹を遂げたことは説明板のとおりである。
説明板に登場する「湯原弥二郎腹切岩」がこれだ。安芸高田市指定の史跡である。池から県道29号線を南へ向かい坂を少し上がって右手にある。広い敷地が後ろにあるが、ここには、かつて「尼子温泉」というのがあった。
『陰徳太平記』巻之十「太郎丸並池内合戦付湯原弥次郎討死之事」によると、弥二郎は毛利方の山県弥三郎(おそらく山県有朋を輩出した山県氏一族)に次のように言い残したという。
吾レ今日ノ大将ヲ奉(ウケタマ)ハリ、敵陣ヲモ切リ崩シ得ズ、却ツテカク止々(ヤミヤミ)ト討レ申ス事コソ口惜シク候ヘ、去リ乍ラ木曽義仲モ、粟津ガ原ニテカヽル最後ヲ致サレ候ヘバ、吾レモ源家ノ大将ト同ジ様ナル討死ヲ致ス事、弓矢取テノ面目也ト存候也、
朝日将軍木曽義仲に自らをなぞらえる誇り高き武将の最期であった。宗綱の死後、湯原氏の家督は弟の春綱が継いだ。春綱は毛利氏に降り、以後代々毛利氏を支えた。『萩藩諸家系譜』によれば、湯原氏の祖は湯原王だという。
系譜ほど怪しい資料はない。自分の家の権威を高めるためのアイテムという側面がある。湯原氏はどうだろう。もちろん真実なのだろうが、仮に湯原王が後付けのご先祖であっても、この万葉歌人に着眼したのは湯原氏の文学的教養のなせる業だろう。
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