井原西鶴『好色五人女』に登場するお夏、おせん、おさん、お七、おまんのうち、最も有名なのは八百屋お七で、二番目がお夏清十郎だろう。姫路の夏のイベントに「お夏清十郎まつり」がある。毎年8月9日に実施され、昨年までで64回を数えている伝統行事である。
まずは『好色五人女』第一話「姿姫路清十郎物語」の冒頭である。
春の海しづかに、寶舟の浪枕、室津は賑はへる大湊なり。爰に酒造れる商人(ばいにん)に和泉清左衛門と云ふあり。家栄えて萬に不足なし。然も男子に清十郎とて自然と生れつきて昔男をうつし絵にも増(まさ)り、其さまうるはしく、女の好きぬる風俗、十四の秋より色道に身をなし、此津の遊女八十七人ありしを、何れかあはざるはなし。
たつの市御津町室津に「清十郎生家跡」がある。標柱がなければ決して分からない。
ここ室津は瀬戸内に数ある港の中でも、殷賑を極めた紅燈の巷である。その中の造り酒屋に清十郎は生まれた。早くから色事を覚えた清十郎はどうなっていくのか。
お夏と清十郎が仲良く墓を並べている。ゆりかごから墓場まで一気に話が飛んでしまったが、この間どのような物語が展開したのだろうか。
お夏清十郎比翼塚の由緒
江戸時代の劇作家西鶴の五人女、近松の歌念仏で有名なお夏は、姫路城の大手門にあたる本町の米問屋但馬屋九左衛門の娘に生まれ、清十郎は姫路の西方、室津港造り酒屋和泉清左衛門の息子で、何不自由のない家庭に育ち、錦絵にも優る美男であったが、故あって清十郎は十九才の時、但馬屋に勤める身になり、明け暮れ律儀に勤めたので万人から好かれるようになった。いつしかお夏と清十郎は深い相想の仲となったが、九左衛門はこれを許さなかった。思いのよらぬ濡れ衣に依って、あたら二十五才の時清十郎ははかなくも刑場の露と消えたのである。此の事を知ったお夏は、黒染の衣に身につつんで読経三昧に暮し、ひたすら清十郎の冥福を祈った。但馬屋も二人の純愛に打たれ「比翼塚」をつくって、其の霊を慰めたと云う。
むこうを通るは清十郎じゃないか 笠がよう似た管笠が・・・・・・
と云う俗謡が大流行し、畏くも天皇上聞に達し、御製を賜わりたるもの。
御製
後水尾天皇
清十郎 きけ 夏が来たりと 杜宇(ほととぎす)
後西天皇
笠が よう似た ありあけの 月
大流行したという俗謡は『好色五人女』に登場している。お夏狂乱の場面である。
むかひ通るは清十郎でないか、笠がよく似たすげ笠が、やはんはゝのけら/\笑ひ、うるはしき姿いつとなく取乱して狂出ける。
この話は天聴に達し御製を賜ったという。俗謡に合わせたかのような御製である。鈴木敏也『西鶴五人女評釈』(日本文学社、昭10)には次のように記されている。
こゝに於てわれ/\は次の句を聯想せずにはゐられない。
清十郎聞け、夏が来てなく時鳥 霊元院
笠がよう似た短夜の月 後西院
(前の句「甲子夜話」には後水尾院として孫引してゐるが、年代の上から、誤記である事が推測される、又江戸の齋藤得元の句と云ふ説もあるけれど、今は普通に従っておく)。事叡聞に達す、彼等まさに以て瞑すべきであらう。
『好色五人女』の刊行が貞享三年(1686)だが、後水尾院は延宝8年(1680)に崩御されている。実際の事件は院の存命中かもしれず、後水尾院作を否定しきれるのものではない。だが、霊元院作とする方が自然だろう。
珍しい顔ハメがあった。顔ハメの絵はゆるいのが多いが、これはリアルだ。叡聞に達したのだから、ここは正装ならぬ盛装ということか。
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